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礼拝での賛美について

礼拝での賛美について
2023年07月14日(金)

 キリスト教は歌う宗教であると何かに書いてありました。キリスト教において、そしてその礼拝において音楽はとても大切なものです。西洋の音楽はキリスト教会の礼拝と共にあったといっても過言ではありません。日本の音楽教育も、その背景に讃美歌の存在がありました。
 このような音楽のある礼拝は、旧約聖書の詩篇を見れば、ユダヤ教にルーツを持つようです。あるいは、レイモンド・アバの『礼拝ーその本質と実際』(日本基督教団出版局、1961には次のような言葉があります。

「約1600年前、記念すべき洗礼式がミラノの大聖堂で行われた。受洗者のひとりに、修辞学の教師であったアウグスチヌスがいた。意味深いことに、彼が後年特にひとつの思い出としたこの式の特徴は、讃美歌が歌われたということによって、彼自身にとっても会衆にとっても、強い感動的な印象を与えたことである。これは監督のアンブロシウスにより、そのころ始められたものである」(145頁)。

 キリスト教会の礼拝において音楽が用いられた始まりはこの時である、という説明ですが、いずれにせよ、キリスト教会はつねにその礼拝において音楽を大切にしてきました。音楽によって、真理がより深く心に入るということがあります。頭だけではなく、心と霊に、魂の核心と根源に真理が語りかけてくる、というのです。もはや音楽のない礼拝は考えられないほどになっています。

「『宗教の侍人として』音楽は礼拝において二つの役目をもつ。第一に正しい教会音楽は副次的なことではあるが礼拝の補助という重要な任務に奉仕する」(145頁)。
「オルガニストと聖歌隊には、音楽という媒介を通して霊の世界を近づける責任が託されている」(147頁)。

 ただ同時に手放しで音楽を導入するということにはいくつかの問題があります。

「教会音楽家の陥りやすい思わぬ危険がある。怠惰や過失ではなく、力をつくして努力した上でのことである。それは礼拝の音楽をして、より大きな目的への手段とする代わりに、それ自体を目的とする危険である」(147頁)。

 音楽それ自体を目的とする危険、とはいったいどういうことでしょう。この本には、アウグスチヌス言葉として次の言葉が引用されています。

「私が、歌われることがらそのものよりも歌声によって動かされるような時には、私は罪を犯して罰を受けるべきであると告白し、そしてそのような場合には、歌われるものを聞かなければよかったと思う。(アウグスチヌス『告白』10巻33章)」(148頁)。

 つまりこういうことでしょうか。楽器の音色の良さ、演奏の上手さ、あるいは上手というだけでなく、何か心を揺さぶるような音量や音色、そういうものによって、何か信仰的な気分の高まりを操作する、創作するということであれば、それは本質を見失ってしまう道である、ということでしょう。

 かといってそういうものを全くなくしてしまうということをこの本は否定しています。ルターの言葉を引用して、乱用は使用を無価値にしない、といわせています。そして「もしも礼拝の真の目的―神の主権、栄光、恩恵の提示―が確認されるなら、危険は避けられるであろう」(149頁)と語っています。神の主権、栄光、恩恵の提示を確認するということが大切なのですね。
 具体的には、歌の場合、歌詞は大切である、ということです。これは欠かすことができません。コンテンポラリーな讃美も素晴らしいものですが、中には、あれれ、と思う歌詞の歌もあります。長く歌い継がれた賛美は安心して歌うことができます。
 神さまの栄光を明らかにする礼拝であるならば、前に立って、会衆に向かって歌うということも避けなければなりません。歌った後に会衆に向かって礼をするということも必要ありません。もし礼をすれば、会衆はおのずと拍手をしてしまうでしょう。そうであれば、神さまに栄光を返していないことになります。

 さて音楽の役割のもう一つは、「音楽の印象的、暗示的機能に加えて、教会音楽は表現的機能を持つ」と書かれています。これもちょっと難しい言葉なのですが、次のような文章が続いています。

「礼拝は本質的に共同のわざであるから、任意的にほとばしり出る讃美は、あらゆる人々が調和的に加わりうるような方法で表されなければならない。この単純な原理を把握し得ない者がコリントの教会に混乱をひき起こしたのである。『あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。・・・神は無秩序の神ではなく、平和の神である』とパウロは言っている(第一コリント14・26~33)。」(151頁)

 みんなが安心して礼拝を捧げることのできるためには、調和が必要である、秩序が必要である、ということでしょう。思い思いに好き勝手にしていてはいけない、ということです。牧師さんはなかなか大変なのですがしっかりしなければならないのです。みなさんがこうしたい、ああしたいといって思い思いにやってくださるのに、どうだろうか、と思いつつも、流されてしまいます。あるいはそれもありかな、などと思ってしまったりもします。しかしいざやってみると、幾人もの方から首を傾げられたり(笑)、自分自身もこれはいただけないな~と思ったりします。後の祭りですが・・・。

 また、一人の人やグループによる特別賛美も素晴らしいものですから大いに行われるとよいと思います。美しい信仰の歌に耳を傾けることは、大いに礼拝への心が高められることでしょう。選曲は、祈りのところで学びましたが、礼拝は公同のものですから、皆がアーメンと言える賛美がふさわしいと思います。また礼拝の賛美は、基本的には会衆の賛美ですから、合唱が中心であると思います。一人ひとりの声が重なり合って、まるで良い香りのお香のように神さまのみ前に立ち上るようなことが良いのだとも思います。個人が消えて、会衆が一つとなる、という美しさです。つまり調和の美しさです。

 思考錯誤もあり、反省すべきことも多いのですが、少なくとも、つねに反省できる会衆でありたいと思います。また、振り返ってみてこれはやめましょうか、ということになったらそれに耳を傾ける柔らかい会衆でありたいと思いますね。


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