神に従おうとしない子らに服従を強制しないで、むしろ彼らの反抗的な我がままを放置されるのは、神の教育の秘儀である。・・・
「勝手にしなさい」というのが神の最後のことばなのではない。私たちの強情さのために、神がどれほど血を流して苦しまれるか―そのことを神は、その強情さのゆえに神が十字架で血を流して死なれたあの所で、私たちに示されるのである。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、72頁
詩篇81編11,12節
2013年2月7日(木)
「勝手にしなさい」と神さまがいわれて人間の悲惨が始まりました。
人間はこの「勝手にしなさい」という神さまの言葉をさやかに聞き、むしろ勝手にしない道、すなわち神さまの望まれる道を選択しなければなりませんでした。
しかしやはり勝手な道を歩んできたのです。それが今の悲惨を生んでいます。
リュティは、この「勝手にしなさい」は神さまの最後のことばではないと言います。最後の言葉は、そして永遠に変わることのない言葉は、十字架のことばです。
神さまがどれほど私たちを愛しておられるのか。血を流すほどに愛しておられるのか。その愛が語られた十字架。
この十字架の言葉をさやかに聞く者でありたいと思います。
また十字架に向かわれた主の御足の後をたどる者でありたいと思います。