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小さいということは特別な好機(チャンス)

したがって、神の前では、大きいということは、特別好ましいことではなくて、むしろ危険なことであり、小さいということは、障害ではなくて、むしろ特別な好機(チャンス)である。・・・

すなわち、人が自分が小さい者であるということを特別なこととして鼻にかけて、心の貧しさを放棄し、小さな「お山の大将」になるということも、起こり得る。そのような場合には、その好機(チャンス)は、終わりを告げることになる。

リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、60頁
ミカ書5章2節
2013年1月27日(日)

イエスさまがお生まれになられた場所はユダヤのベツレヘムです。このベツレヘムという町のことは、聖書では小さな町、それゆえに誰からも尊ばれることのない町と記されています。しかし神さまはこの地上にお越しになるのにこの町を選ばれたのです。この町は小さいゆえに神さまに選ばれたのです。

小さいということはこの世ではあまり尊ばれません。しかし神さまに用いられ、神さまの祝福をいただくためにはこの小さいということはチャンスなのです。

今、私たちは小さいでしょうか。小さいとするならば、それは幸いです。大きいということを鼻にかけていませんか。そういうことであるならば、目の前に崖っぷちが見えています。

リュティはさらに、もし小さいということを今度は鼻にかけてしまうことが人間にはあると指摘します。自分の小ささに開き直り、うずくまるのです。それは結局自分の小ささを受け入れていないのですから、小さいという心の貧しさに生きていることになりません。こういう時、好機、チャンスは終わりを告げています。

小さいということに、心安んじて、神さまのご支配にゆだねる喜びを確かにしましょう。


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