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神さまを知るということについて

今朝(2022年10月22日土曜日)の聖書愛読の個所から神さまを知るということを少し考えてみたいと思います。

第二節 神を知る

問54 あなたは、神の存在を知る体験をすることはありませんか。偉大な自然の力に触れたり、人生における思いがけない出来事を体験し、神の存在を実感することはありませんか。偉大な人格、すぐれた芸術もまた、神の存在の神秘を感じさせてくれるのではありませんか。そのようにして神を知ることはできませんか。

答 それもあると思います。私も、そのような体験によって、豊かにされたり、慰められたりする体験をしています。しかし、そういう体験があれば、聖書を読まなくても神を知り得るということもないし、あるいは、聖書の神が、そのような体験において実感されればそれでよいということにもなりません。むしろ、そのような自然的・文化的な神体験には、いつも危険が潜んでいると思います。

問55 どんな危険があるのでしょうか。

答 まず何よりも、そこで自己満足に陥ります。そこで自ら求める神体験は、自分が抱く考えに添って神らしい存在と認め得るものを、どこかに見出し、それを自分が楽しむことになります。
 第二に、そのようにして知る神は、私の存在に巣くう罪の根源にまで食い込んで罪を滅ぼし、私をそこから解放する力を持ちません。この罪に捕えられている自己がなお生きているとき、その自己が求め、判断する神体験は、偶像礼拝を生む源にさえなります。
 私は、さまざまなところで神の力に触れていると思っています。しかし、そのような体験が、過ちを生まず、まことの神への感謝の体験になるのは、根源的なところにおいて、真実の神を知る知識を与えられているからであります。

問56 そのように真実の神を知る道は、どこに与えられているのですか。

答 私は、私の主となられたイエス・キリストが、唯一のまことの神を、「わたしの父」である神、「私たちの父」である神として示してくださったからこそ、神との愛の関わりに生きることをゆるされているのです。唯一の神は、唯一のわたしたちの主イエス・キリストを通じてご自身を啓き示してくださいました。そこでこそ私は、確かに神を知り、神を信じます。そして、すべて、自分が体験するものを、この神のご支配を確信しながら理解し、受け止めたいと思います。まことに主イエス・キリストこそ真理の道、いのちの道、すなわち神を知る道であります。

加藤常昭、『雪ノ下カテキズム』、教文館、1990年、103頁f

神を知る、といった場合、体験によって知るということの問題点ですかが、そもそも、私が知ると言ったときの、「私」というのは、そんなに確かな存在だろうか、という問いが大切である、ということを思いました。

イエスさまを信じて救われた、ということは、自己中心から解放され神さま中心となった、ということですが、神さまを知る時の「判断力」を依然「私」というものに置いている、私を確かな物差しとして判断しようとしている、そのこと自体にすでに問題が含まれている、ということでしょう。そういう自己批判をする、厳しいまでの自己批判をしていく、それが可能となるのがキリスト教信仰なのだと思います。


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