「永遠のいのち」-この言葉によって、それと並んで「永遠でないいのち」も存在しているのだということが、語られている。そのような別のいのちは過ぎ去るものであるから、それは、実はいのちではなくて、覆い隠され偽装された死である。しかし、私たちがそのことを初めて明瞭に知るのは、キリストにおいて永遠のいのちが「現れ」ることによってである。彼が永遠のいのちを、いわば明るみに出されたのである。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、375頁
ヨハネの手紙 第1 1章2節
2012年11月24日(土)
覆い隠され偽装された死。
私たちがいのちと言っているものが、このような言葉で表現されています。キリスト抜きのいのちがこのような言葉で表現されているのです。
いのちが輝くとか、いのちを大切にとか言われるその命がこのような言葉で表現されているのです。
結局このいのちの最後は死なのです。
ですからキリストとの出会い、キリストの十字架と復活への信仰、それが永遠のいのち、尽きないいのちに生かされる道であること。それがどんなに尊いことであるのか。
私たちはその尊さを学び続けなければなりません。