「人間が自分の都合と利益のために、自分のための神を鋳造し、伏し拝もうとする、まさにその人間的な願望に対して、まことの神が神として、すなわち人間の手によって造られたのではない神として、自らを示される」(芳賀力、『神学の小径1 啓示への問い、』、キリスト新聞社、2008年12月25日発行、30頁)。

 キリスト教は啓示宗教です。啓示。覆いが取り除かれる、という意味ですが、広辞苑によると「人知を以て知ることのできない神秘を神自らが人間に対する愛の故に蔽いを除いてあらわし示すこと。聖書では黙示と訳」とあります。
 これに対して自然宗教、というのがあります。自然崇拝というのではなく、人間の側から見出すことのできると考える宗教のことです。なんか祈っているをだんだん分かってきた、とか、一所懸命修行に打ち込んでいると悟りを開くことができた、というのはこれに当てはまるでしょうか。先日世界遺産の番組で、どこかの国で丸い石を製作している人がいました。「切り出された石を丸く形成していく過程で宇宙と交信し、諸霊を交わるのです」といっておられましたが、これも自然宗教という感じがします。
 この自然宗教に対してキリスト教は啓示宗教なのです。それが明確になるのが、聖書の存在です。聖書を、ただの経典ではなく「正典」(カノン)として位置づけているというところに啓示宗教であることが明らかになっていると思います。信仰を問い、信仰を説明し、信仰に生きるときの基準を持っている、ということです。なんかこう感じました、とか、霊的な体験をしました、ということを土台にしない、という宗教であるということですね。

 さて聖書を土台として前進してきたキリスト教信仰ですが、その歴史の中でさまざまに変遷をしてきました。この教会史の変遷を知らないと、自分のもっている信仰のスタイルにどのような意味があり、それがどのような歴史的過程の中で生まれたかがわかりません。自分のもっている信仰のスタイルが歴史的にどのような位置づけにあるのかが分からないと、時に独善的になったり、違うスタイルの人を見下したりさばいたりということをしてしまいます。
 私たちは、プロテスタント教会である、というのですが、プロテストということばは、当時のローマ・カトリック教会に対しての言葉です。初代教会が、東と西とに分裂し、東が東方正教会、西がローマ・カトリック教会。そしてこのローマ・カトリック教会から分裂したのがプロテスタント教会。プロテスタント教会は、それ自体、いくつも分裂を繰り返し今日に至ります。
 プロテスタント教会は、信仰のみ、聖書のみ、恵みのみ、ということで前進してきましたが、ルター派や改革派、長老派、また聖公会、聖公会から生まれたメソジスト系では幼児洗礼はオーケーですが、再洗礼派やバプテスト系では、幼児洗礼は言語道断でしょう。教会歴についても、聖餐式の物素についても、いくつもの考え方が生まれることになりました。19世紀米国の信仰復興、リバイバル運動、20世紀に入ってのカリスマ運動などなど、さらに複雑になっています。キリスト教会と思って一歩中に入ってみると、なんかイメージしていたものと違うな~という教会もたくさんあります。それがいいという人もいますしなかなか複雑です。

 ですから一体キリスト教とはどういうものなのだろうか。何をもってキリスト教会と言えるのだろうか、イエスさまを信じていればそれでキリスト教会なのだろうか、イエスさまを信じているとは言っているけれども、それが阿弥陀さんや八百万の神に置き換えてもそれほど変わらない信仰になってしまってはいないか、などなど、考えなければならないことはあります。そんなんどうでもよいでしょう、という人もいるかもしれませんが、私は信仰の問題というのは、この世の問題だけではなくあの世にまで引き継がれていく問題なので、最も大切なことだと考えています。

 棚村重行という先生が『現代人のための教理史ガイド』という大変面白い書物を書いておられますが、その中に登場する「教会を構成する『七点セット論』」(棚村重行、『現代人のための教理史ガイド』、教文館、2001年2月15日発行、28頁)を学んでみたいと思います。

 教会というのは、すべて歴史的に形成されてきたものである、とまず語られます。それをバスにたとえて語られています。すべての教会というバスは、どのような教派であってもこの7点セットを持っている、というのです。

1、ガソリン〔福音〕
2、エンジン〔礼拝〕
3、総合説明書〔聖書〕
4、運転手引き〔信条〕
5、運転手と車掌〔教職、聖職者〕
6、道路地図、交通法規〔教会史、社会事情、教会倫理、諸宗教の教理〕
7、乗客〔信徒〕

 この七つのどれがかけてもバスは成り立たず走行できません。またどれかに歪みがあれば、走りはするけれども、しばらくすると排気ガスをまきちらし世界に迷惑をかけ、自らも故障してしまいます。

1、ガソリン〔福音〕
 「『福音』の構成とは、より正確にいうと(1)三位一体神の啓示行為(教理では啓示と神学論)および(2)三位一体神の本質と位格(三位一体論)、(3)キリストの人格とわざ(キリスト論と贖罪論)、(4)救済の出来事と過程(救済論)といった客観面、主観面にわたる諸側面をもちつつもそれらを総合したもの」
 「このような複合諸要素を持つ『福音』が純度の高い優れたガソリンのようなものとすると、鉛分を多く含むガソリンは長期的には汚い排気ガスを多量に吹かしエンジンを傷めて台なしにしてしまう。混ぜ物なしの純度の高いガソリンである正統な『福音』こそ、教会バスを息長く走らせることができる」「異端的な『福音』理解は、結局鉛分を多量に含む劣悪なガソリンのようなもので、ついには教会バスのエンジンをだめにし、その排気ガスも世界史道路で宗教的な公害問題を起こす原因となる」(前掲書、29頁)

2、エンジン〔礼拝〕
 「公同の礼拝において説教者によりとりつがれた『福音』の説教と執行された『聖礼典』に信仰をもって与る生活こそ教会バスのエンジン部分」
 「福音というガソリンの純度をいい加減にして走らせると、車はやがてエンジン・トラブルを起こし、教会バスの走行は立ち行かない。そのバスは、最終的にストップし、礼拝不振、伝道不振、教勢不振、財政不振、最後に教会閉鎖に追いやられるわけである」(29頁f)。

3、総合説明書〔聖書〕
 「このバスの『総合説明書』こそ旧新約六十六巻よりなる『聖書正典』である。この総合的説明書をつねに正しく読み取り、バスを運転することこそ、歴史的教会バスに乗り合わせるすべての聖職者、信徒の使命である」。
 「しかし、残念ながらこの聖書正典という総合説明書は分厚く、緊急のとき、あるいは初心者はいうにおよばず、熟練者にも勘所や構造をつかむことは容易ではない。そこから、聖書を自分の哲学や世界観、イデオロギーで読みこみ、教会バスを運転する『異端運動』やセクトの登場という世界史高速道路におけるセンターライン突破と転覆事故の危険性がつねにつきまとう」(30頁)。

4、運転手引き〔信条〕
 「歴史的教会バスの運転手たちは、聖書正典から、『福音』理解と正しい教会の組織、運転、救済史的方向性にいたるポイントを抜粋、要約し、それを信条、信仰告白、教理問答といった『運転手引き』という形で教会バスに公式、準公式に装備して役立てることにした」。
 「日本のプロテスタント教会における敬虔主義的、福音伝道主義的な『信条よりも心情へ』という人々の弱点は、信条や教理伝統という手引きを無視して総合説明書である聖書正典を、自分の心の敬虔の涵養のために読みこむか、社会心情(非抑圧者への連帯など)の満足のため読みこむ傾向があるという点である」(30頁f)。

5、運転手と車掌〔教職、聖職者〕
 「教会バスは、総合説明書とハンドブックにのっとって正しく上手にそれを運転する熟練した運転手と車掌を必要としている。この運転手とは、その歴史的教会の教職ないし聖職者であり、また車掌とは役員、ないし長老、執事といった『職制』において奉仕する人々である」。
 「どんなバスにもしっかりとした熟練した運転手団の職制が必要であるし、自分のバスの車体構造とモデルの特徴については、運転手のみならず、車掌(役員、長老)と乗客(会員)も基礎知識は身につけたほうがよいのである、万が一の事故であわてないように」(31頁)。

6、道路地図、交通法規〔教会史、社会事情、教会倫理、諸宗教の教理〕
 「そのバスが走行している具体的な世界史、各国史の文明と社会環境の道路事情にもまた通じていなければならない。そこで教会バスの運転席の前のところには、首都圏道路地図、各県道路地図、交通法規を置いておくべきである。また、カー・ラジオから時々刻々流れる道路情報のように、世界史、教会史、そして国際関係、経済、社会事情、教育と文化、諸宗教、宗教法人関係法規など現代の歴史的道路事情に運転手-車掌はかなり通じていなければならない」(32頁)。

7、乗客〔信徒〕
 「教会バスには、信徒の方々という乗客が乗り合わせている。運転手や車掌たるもの、常に『神の国』をめざして走るバスの同乗者たる信徒の方々へのきめ細かな愛のケア(牧会、牧会学)を怠ることはできない。信徒の方々がバス酔いしたり、体調を崩せば、手当に必要な救急箱というべき『牧会心理学』や『カウンセリング』などで対応しなければならない。また、バスが故障すれば、運転手も車掌も、時には乗客も協力して、破れたタイヤ交換とか土手におちた車体を道路側へ押し上げねばならない」(32頁)。

「運転手、車掌、そして乗客が、これら歴史的教会の『七点セット』の全体にそれぞれの役割に応じて通暁し、また熟練して用い運転してはじめて、いかなる悪天候、悪道路事情の中でも、安全に『神の国』めざして走行できるのである」(33頁)。

「『教理史』とは、歴史的諸教会がこれまで運転のハンドブックとしてきた信条、信仰告白、教理や神学の伝統などを素材としてそれらを歴史学的に分析し、特に教会形成の『七点セット』の個々について、またそれらの相互関連について総合説明書やこれまでのハンドブックの内容を吟味、検討し、各教会が走行した具体的な世界史的、各国史的道路事情との関連で分析し評価する学科のことである。」(33頁f)。

 『七点セット』論、なかなか面白くまたよくわかる説明です。

 私は牧師ですので、教会バスにおける運転手の役割が与えられている、ということになります。まず教会バスには純粋なガソリンを入れなければなりません。軽油や灯油が安いからと言ってそれらによってエンジンを回してはいけないのです。つまりどんなに手軽であっても福音以外の原理によって礼拝というエンジンを回してはいけないのです。またエンジンは適切な回転を維持し、アクセルとブレーキ、ギアチェンジを適切にしながら安全走行をしなければなりません。いつもトップスピードではいけません。カーブの前にはスピードを落とさなければなりません。乗客の事情を無視したような運転は避けなさればなりません。無理なハンドルさばきでは乗客は車酔いをします。道路事情にも通じていなければなりません。社会情勢、各種神学の研鑽はつねに必要でしょう。最新の神学事情にも学ぶ必要があるでしょう。


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