マタイの福音書12章44節の「きちんと片付いています」は、他の訳では以下の通りです。

「飾りつ(付)けがしてあった」(協会訳口語訳、共同訳2018)
「整えられていた」(新共同訳〕

 原文のギリシャ語では「コスメオー」という言葉で、コスメティック(化粧品、化粧用の)、という言葉の語源になった言葉である、と先日の礼拝でお話ししました。綺麗に飾り付けても、依然空っぽであれば、そこに汚れた霊がしのびより、以前よりも悪い状態になる。そんなお話をしたかと思います。
 この「コスメオー」という言葉は、さらに「コスモス」という言葉の語源でもあるとのこと。コスモスというと、これからの季節、きれいに咲くコスモスの花を想像します。花のコスモスの名前の由来もそうなのかもしれませんが、この「コスモス」は「宇宙、秩序、調和」という意味です。
 「コスモス」の反対の言葉として考えられるのが「カオス」(混沌)でしょう。創世記1章2節の「地は茫漠として何もなく」の「茫漠」は、これにあたるような気がします。神さまは無から有を創造されましたが、その「無」とは何か。日本人が「無の境地」などという時の「無」には、どこかすがすがしいものを感じますが、それとはずいぶん違って、秩序のない混沌とした状態を、聖書は「無」と語っているように思えてきます。そのような無秩序の状態、混沌とした状態に、神さまが創造のみわざをなさってくださった。それが世界であり、コスモスである、ということでしょう。

 このカオスからコスモスに造りかえられるという創造のみわざに、キリスト者はあずかっています。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5・17)
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6・15)

 イエスさまによって、新しく創造される、それは、カオスからコスモスに創造されること。自分という混沌とした存在が、主にお出会いし、主とともに歩む者と造り変えられて、調和の中に生きるようになる。そのような創造のみわざにあずかっているのです。
 これはひたすらイエスさまのお力によるものです。三位一体の神さまのお働きの中になされることです。
 であるにもかかわらず、もし「家は空いていて」、つまり空っぽである、その家が空いている、すなわち心の中が空っぽである、イエスさまを心の王座にお迎えしていない、たとえお迎えしていたとしても相変わらず自分が王のように、主人のようにふるまっている、とすれば、そこに「汚れた霊」は忍び寄るのです。そうなれば「その人の最後の状態は初めよりも悪くなる」のです。信仰を持って新しく生きはじめたのに、信仰を持つ前よりも「悪く」なってしまう。自己中心の信仰生活は、信仰を持つ前の生活よりも「悪く」なってしまう、とイエスさまは言われたのではないでしょうか。

 イエスさまが心の王座にお座りくださって、イエスさまを主として生きる信仰生活には、秩序と調和があるのです。教会生活も、この秩序と調和の中に営まれて行くものです。
 私たちの望む「自由」は、ときに「混沌」を生み出します。しかしイエスさまにある本当の「自由」には「秩序と調和」があるのです。それが新しく創造された者の生き方です。


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