昨日の礼拝説教では、講壇に上がれず失礼しました。説教自体は役員の方に説教のレジュメを朗読していただきましたが、私の文章ではよく分からないところも多いかと思いましたので、少し補足したいと思いました。

 一つ目のポイントの「彼らの会堂」という言葉ですが、原文には三人称複数形の人称(指示)代名詞「彼らの」が記されています。それで「彼らの」が、新改訳や口語訳では訳し出されていて、そこからこのポイントを挙げました。
 「彼」という言葉は、ある先生は少し日本語としてはこなれていないのではないか、といわれていました。例えば、私たちの日常会話の中で第三者を「彼は」という言い方はなかなかしないものです。大抵は「あの人」とか、あるいはその人の名前をもって話題を続けるということをします。彼、彼女、という言葉自体は、翻訳のために生まれた言葉ではないか、とも言われるのかもしれません。
 今日はお盆ですがこれとは別に春と秋に彼岸の季節があります。「彼岸」(ひがん)は、「此岸」(しがん)に対する言葉なのだと思います。此岸、すなわち現世に対して、彼岸、すなわちあの世、今のこの世ではないところ、ということでしょう。「彼」という言葉には、そのような雰囲気がつきまとっていて、この言葉を使うと、単純に三人称を現している以上に、ここにはいない、私たちの立っているところとは違うところに立っている存在、を現しているような気持になる、ということでしょう。その場にいない妻のことを、紹介するのに、彼女は~というとちょっと冷たいような気持がするのは、私だけでしょうか。
 そんなことから、「彼らの会堂」という言葉自体に含まれている問題を思い巡らしていました。私たちの会堂は、集うすべての人にとって「私たちの会堂」であり、そのためにも、いつもイエスさまから「わたしの会堂」と言っていたただけるような会堂であり続けたいと思いました。

 もう一つですが、異邦人という言葉。
 マタイの福音書12章18~21節は、イザヤ書42章1~4節からの引用です。

イザヤ42・1~4は

「1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、
 わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。
 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
 彼は国々にさばきを行う。
2 彼は叫ばず、言い争わず、
 通りでその声を聞かせない。
3 傷んだ葦を折ることもなく、
 くすぶる灯芯を消すこともなく、
 真実をもってさばきを執り行う。
4 衰えず、くじけることなく、
 ついには地にさばきを確立する。
 島々もそのおしえを待ち望む。」

マタイ12・18~21は

「18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、
 わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。
 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
 彼は異邦人にさばきを告げる。
19 彼は言い争わず、叫ばず、
 通りでその声を聞く者もない。
20 傷んだ葦を折ることもなく、
 くすぶる灯芯を消すこともない。
 さばきを勝利に導くまで。
21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

 レジュメにも書いていますが、このイザヤ書42・1の「国々」がマタイでは「異邦人」、また4の「島々」が、少し文章が変わっていますが、該当する言葉としてマタイでは同じく「異邦人」となっていると思います。
 イザヤ書での、国々も島々も、イスラエルには島はありませんから、外国を現していると思います。ですから文意としては「すべての国、すべての民」ということでしょう。それをマタイでは「異邦人」と書き表わした、ということなのだと思います。
 すべての国という言葉は、当然ではありますが、私の国、私をそこに含めることになります。それが、いつの間にか、自分に敵対する存在を省いて理解しようとするバイアスがかかる。イスラエルは、すべての国、と聖書に書いてあるにもかかわらず、いつの間にか異邦人は選ばれていない民と理解するようになってしまった、ということなのだと思います。
 それをイエスさまは、本当の意味で「すべての国」と語ろうとされ、それを強調するために「異邦人」といわれたのではないでしょうか。

 癒された足の萎えた人も、ついてきた大勢の人たちも、けっして異邦人ではなかったと思います。会堂にいたわけですから。しかし病のために、まるで異邦人のように扱われていた。それが実態だったのだと思います。ユダヤ人にとって異邦人がどのような存在だったのか、私たちには十分に分からないことですが、「異邦人に生まれなくて感謝します」という祈りがユダヤにあったということですから、そこには深い溝があったのです。

 イエスさまは、そのような深い溝を埋めるために、この地に来てくださいました。そのために「言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない」お方として地上を歩んでくださいました。十字架刑の判決が下される裁判においても何もお話しになられませんでした。何も話されないということがこの世を驚かせたと聖書は記します(マタイ27・14)。そのお姿こそ「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない」お方として歩んでくださったということなのでしょう。失われた人を発見するためにこの地に来てくださったイエスさまを見上げ、教会はいつまでもそのような福音を語るところでありたいと思います。


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