先週の礼拝で読んだ聖書箇所で、二通りの解釈があることを少し触れましたが、ちゃんと説明できていなかったのではないかと思いました。あらためて書いておきたいと思います。
マタイ11・16~17
新改訳2017
「この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。『笛を吹いてあげたのに 君たちは踊らなかった。 弔いの歌を歌ってあげたのに 胸をたたいて悲しまなかった。』」
協会訳・口語訳
「今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。」
子どもたちが、笛を吹ても踊らず、弔いの歌を歌っても悲しまなかったと嘆いているのが、いったい誰が誰に対して嘆いているのか、の解釈によって二通りがある、ということです。
一つは、子どもたちが神さまに向かって嘆いているという解釈。もう一つはこの世に向かって嘆いているという解釈。
一つ目の解釈では、神さまに向かって自分なりに一所懸命に信仰に生きているけれども、神さまはちっとも答えてくださらない、と子どもたち、すなわちこの世が嘆いているということです。この場合、この世は本当に一所懸命に信仰に生きているのか、と問い返されなければならないのだと思います。この世が、ヨハネに向かって悪霊に憑かれているといい、イエスさまに向かって罪びとの仲間だ、といっているのは、一所懸命に信仰に生きていない証拠であろう。もし一所懸命に信仰に生きているならば、そんな悠長なことはいっておれないはずだ、ということになります。
もう一つの解釈では、この世に向かって一所懸命に神の言葉が語られているにもかかわらずちっとも心を動かそうとしない、そのようなこの世の姿をイエスさまが嘆いておられる、ということです。この世が、ヨハネに向かって悪霊に憑かれているといい、イエスさまに向かって罪びとの仲間だ、といっている姿を見て嘆いておられる、ということです。
おわかりいただけたでしょうか。ややこしいことですね。
自分の思うように他者が心を動かしてくれないと嘆くまえに、自分自身は心を動かしているだろうかと振り返ること。また神さまの嘆きに気づいて、自分自身の心を動かそうとすること。いずれの解釈においても、自分自身の心のありようが問われているのだと思います。