「我は、公同の教会を信ず」

使徒信条で告白するこの信条をクランフィールドは次のように解説しています。

「教会がその頭である『きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブ13・8)キリストにしっかりと依り頼むところでは、時間に関しては教会の公同性は保たれる。しかし、教会は弱くまた揺らぎやすいものであるゆえに、過去の教会との継続性を保持し重んじるために絶えず戦い、また信仰においてわたしたちの父母から離れるようそそのかす個人主義や新奇さを求める願望にふけらせる思い上がりに対して、身を守ることが必要である。このことは、懐古趣味を求めるとか厳格を好むとかいうことを意味するものではない。福音それ自体が、教会が常に神の御言葉による改革に開かれていることを求めている。さらに、教会が歴史の中に存在する限り、多くの変化を経験せざるを得ないし、また多くの異なった状況や必要に答えねばならない。しかし、教会が本質的にどのような時代にあっても同一であるということは、保たれねばならない。この公同性の時間的な側面は、教会が等しく若者のためであるとともに、老年の方々、中年の方々のためのものであるという認識をも含むのである。ひとつの教会にとって、若者を老年の人々より重んじるとか、若者よりも老年の人々を重んじるということは、教会の公同性を放棄することになる。

公同性は、また場所や地理の問題でもある。教会がイエス・キリストの真の教会である限りは、教会はあらゆる国や政治的な国境を越えて、さらに人種や皮膚の色、部族、文化、社会的な地位、経済的な状況の違いをすべて越えて、一にして同一である。なぜなら教会の主は、万人の救い主であり主であるからである。このことは、組織としての統一があらゆる犠牲を払って達成されねばならないということを必ずしも意味するものではない。しかし、このことは、あらゆる自立している教会や教派は、公同性を傷つけたり放棄したりする危険に対して、絶えず守りを固めるよう求められていることを意味するのである。公同性は、例えば次のような時には放棄されてしまう。すなわち、公の礼拝で、各個教会や教派が、隣人やその教会が置かれている国家に対しては正しい配慮をしながら、祈りの中に、人類全体を包括することを忘れ去るようなとき、あるいは他の諸教会の信仰や習慣を顧慮することなく、自分自身の考えを追求していくことによって、兄弟姉妹の諸教会ならびに同じキリスト者に対して、新しい不必要な障壁を築くときなどである。」

(クランフィールド、『使徒信条講解』、関川泰寛訳、1995年、新教出版社、115頁ff)

公同の教会を信ずるということは、自分の教会が最高、最善であるとしない、ということです。他の教会に比較して唯一無二の正しい教会であるとし、他の教会を否定していることになっているとすれば、公同の教会を信じていることになっていないということです。

またそれは同時に教会の中において、一つの「色」に固執しない、ということも告白しています。上記の文章の中には、若者と老年の人々をまえに一方に偏った教会運営がなされてるとすれば、それは公同の教会を信じていることにならない。また一つの政治的な主張が教会の主張となっているならば、公同の教会を信じていることにならない。また諸教会の信仰や習慣を考えることなく、自分自身の考えを追求して、兄弟姉妹の中にいらない壁を作ることになるならば、公同の教会を信じていることにならない、というのです。

つまりウクライナのためだけに祈るのではなくロシアのためにも祈らなければ公同の教会を信じている教会とは言えない。野党、与党区別なく為政者のために祈らなければ公同の教会を信じているとは言えない、ということです。様々な政治的主張も経済的な立場も一切のことを越える、あるいは包括する、それが公同の教会を信じるということなのです。

教会は自由なところであるはずです。しかしこの自由ということは曲者(くせもの)です。もし牧師である私が、一つの色を主張し、そうでない考え方を排斥するようなことになれば、教会はどう対応すべきでしょうか。もちろん教会は信仰共同体ですから、ゆずることのできない主張があります。たとえば、イエスさまの十字架が全人類の罪の贖いのためであった、ということはゆずれません。たとえ教会の兄弟姉妹すべてがそれに反対票を投じても、牧師は独り「イエスさまの十字架は全人類の罪の贖いのためであった」と主張し続けます。そうすると兄弟姉妹の信仰の自由はどうなるのだ、という意見が出てくるでしょうか。私はイエスさまも信じたいけれども阿弥陀さんも信じたいのだ、という主張はどうすればよいでしょうか。やはりその自由は教会の中においては制限させていただくことになるでしょう。これは極端なことかもしれませんが、聖書の言葉を文字通り受け入れるか否かでは、近代の教会はさまざまな意見の違いを持つようになりました。私たちの教会は聖書が神さまの言葉であると信じています。ちょっとそうでもないのだけれども、という意見が多数を占めるようになっても、牧師はそれをゆずらないでしょう。

しかし賛美歌をどのようにするのか。どのような楽器で賛美するか。オルガンを中心にするのか、ピアノを用いるのか。あるいは、どのような賛美を用いるのか。コンテンポラリーなワーシップを歌うのか。それとも伝統的な讃美歌を用いるのか。ローマ・カトリックでは、第二バチカン公会議以降、さまざまな改革がなされてきて、讃美歌もグレゴリオ聖歌、カトリック聖歌、日本語、ラテン語と、いろいろと変遷があり、昔を懐かしむ人、新しくなって良かったという人、さまざまに意見があると聞いたことがあります。これは教会によって、また教会に集う世代によってさまざまな文化があり、違いが許容されることなのだと思います。

このような「許容される部分」については、どのように決めればよいのか。ここでこそ話し合いが大切なのだと思います。今集まっている人、そしてすでに天国に帰っていった人、つまり教会の伝統、そういう意見が総合的に、自由に、愛をもってテーブルに出され、教会の決定として決められていく。そしてそれを皆があらためて共有する。共有されたことを、皆で取り組んでいく、というふうにです。これが公同の教会を信じる教会のあり方ではないでしょうか。

私自身こういうことがよく分かっていなかったのではないかと反省しています。長年牧会されて来た教会に新参者として赴任した者にとって、そこでの共通の文化や意見はなかなか分からないものです。一つのことにも背景があり、行なわれていることの意味があるのだと思います。ですから、自分で決めることができないのです。誰かがこれがいいのではないか、と言えば、はいはい、と答えてしまうのです。自由と言えば自由です。しかし教会としては、本当にそこに自由が成り立っているのだろうか。誰かが自由に自分の主張をすることによって、誰かの自由が制限されてしまってはいないだろうか。牧師がこういったから、牧師が許可したからもう誰も反論も、違った意見も出すことができなくなっているとすれば、自由な教会とは言えないですね。せっかくがんばって取り組んでいてくださる方にも申し訳ないことになるような気がします。

昨年病に倒れて痛感したのですが、ある日突然牧師がいなくなったら、教会のすべてがストップしてしまう。役員さんが中心にいろいろと配慮してくださるので、それは良かったのですが、良かれと思う思いが高じて結果的に声の大きな人の意見ばかりが大切にされることになるとすれば、一体教会はこれからどのようになっていくのか。船長のいなくなった船が、まるで迷走していくような危険が予測されることになるのではないか、と思いました。幸いそんなことにはならなかったのですが、そのような危険が予測される場面は皆無であったのかというとどうも自信がないと言わざるを得ないという感じもしています。

ですからあらためて、公同の教会を信じる私たちには、総会で選出された役員を中心に、各会、各取り組み、各奉仕、などなどが、全員の承認するところ、あるいは全員が平安をもって受け止めることができること、であるのかどうかを確認していくことが必要なのではないかと思いました。もしその上で、各奉仕、取り組みがなされているとすれば、すべてのことが教会全員の祈りの中にあることなので、より喜びと感謝をもってなすことになるのではないか、もし取り組みに検証が必要な時がやって来るならば、冷静な気持ちで振り返ることもできるのではないか、と思うのです。そして牧師が突然天に帰ったとしても、そのような教会であれば続いて神さまの愛を伝えるところとして継続していくのではないでしょうか。


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