「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。しかし、イエスは言われた。『子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。』」
(マタイ19・13、14)
礼拝中の子どもたちの過ごし方については、子どもたちの年齢が刻々と変化していきますので、その過ごし方も変化してきていると思います。教会では「母子室」という言葉が生まれました。私はこの言葉は、お母さんが子どもと一緒に礼拝をささげるための配慮によって生まれた言葉であろうと想像しています。子どもはお母さんのお膝の上で礼拝をささげるのです。しかしこの言葉は、お母さんだけが子どもの面倒を見る、という印象を与えることになり、最近ではあまり人気のない言葉になりました。私たちの教会では、和室礼拝堂と名づけられている部屋が実質、親と子どもが一緒に礼拝をささげる部屋となっています。素晴らしいと思います。
私は、礼拝は、子どもも大人も一緒に献げるものであると思っています。あるいはそうでありたいと願っています。どうして子どもが礼拝の場所にいてはいけないのでしょうか。騒ぐからでしょうか。じっとしていないからでしょうか。そういう意味で邪魔なのでしょうか。もしそういう考え方があるとすれば、標記の聖句に登場する弟子たちと同じですね。イエスさまに「わたしのところに来るのを邪魔してはいけません」とお言葉をいただかなければなりません。
子どもも、小学校に進むと、学校では40分授業の経験を毎日積み重ねています。その40分はじっと座っているだけではありませんが、しかしその半分の20分は座っていることが可能でしょう。お父さんやお母さんの隣りに座って礼拝をささげるという貴重な体験を子どもにしてほしいと願っています。またお父さんもお母さんも、自分の子どもと一緒に礼拝をささげる、理解できてもできなくても牧師のお話しに耳を傾ける、難しい言葉かもしれないけれども、大人といっしょに主の祈りを祈り、使徒信条を告白する、という経験を積み重ねてほしいのです。大草原の小さな家の礼拝風景のように・・・。
三重県にある恩師の教会に一度出席したことがありますが、そこでは大人の礼拝中に、牧師からの子どものお話しの時間がありました。10分ぐらいでしたが、牧師の呼びかけに子どもたちがみなこぞって講壇の前に集まるのです。そうして牧師は集まった子どもたちに優しく(易しく)話しかけます。それを200人近い会衆が祈り心をもって見守っているのです。感動しました。その時間が終わると、子どもたちは母子室に移動していきました。子どもたちは礼拝の最初から参加をして、この牧師のお話しまでの時間を礼拝堂で過ごし、その後は母子室に移動する、ということですね。
もちろん大人の礼拝に参加する子どもは退屈でしんどくなってくることになるでしょう。何とか時間を過ごす工夫も必要になって来るでしょう。信仰的な(あるいはそうでなくても)絵本や、音の出ないもの、お絵かきなどなど、お父さん、お母さんにはなかなかチャレンジです。しかしそのチャレンジもまた、子どもを信仰者として育てていくことの学びなのです。そうしてお父さん、お母さんも、信仰者のお父さん、お母さんとして子どもと一緒に成長していくのです。
もちろんこのような取り組みをするならば、しずかな礼拝中に違和感のある音が出たり、子どもの泣き声も響いてくるでしょう。礼拝者はそれを許容するのです。そうでなければ上記の聖句の弟子たちと同じでしょう。もちろん静かに礼拝をささげる環境を大人は努力しなければなりません。しかしかといって子どもの泣き声が聞こえる礼拝も普通なのではないでしょうか。そうして教会全体が、子どもたちを信仰者として育てていくのです。そうです。「教会全体」が子どもたちを信仰者として育てていくのです。そのビジョンを、そして気概を持つのです。子どもたちは教会の未来です。大人の礼拝が、子どもたちを締め出してしまっていては教会に未来はありません。教会が白く塗った墓になってはなりません(マタイ23・27)。
子どもだけではありません。心身のハンディキャプを負う方々も一緒に礼拝をささげたいと願っています。精神的な問題を背負って生きる人たちも一緒に礼拝をささげたいのです。認知症の進んだ高齢者の方も一緒に礼拝をささげたいと思います。喃語(なんご)と呼ばれる言葉も聞こえてくるかもしれません。でも一緒に礼拝をささげたいのです。
イエスさまはそのような教会を望んでおられるのではないでしょうか。
ですから昨年の10月以降、教会学校の時間と礼拝の時間が重なったことは、私が倒れたので仕方のないことだったのですが、上記のようなことができなくなってしまって、本当に残念でした。以前はシャロームタイムだけだったかもしれませんが子どもも大人も一緒に賛美を献げられていて楽しかったな、と思い返しています。教会学校スタッフの皆さんには、現在教会学校の時間を元に戻す取り組みをしていてくださいます。
教会学校の子どもたちへ。8月からは教会学校の礼拝開始が9時からになります。9時50分には分級も終わりますから、それ以降は、お父さんお母さんと一緒に礼拝に出ましょう。絵本をもって、お絵かきセットを用意して、礼拝堂に一緒にいてください。少しずつ大人の賛美にも慣れていきましょう。難しいお祈りをする大人に、あとであれはどういう意味だったのですか?、と聞いてあげてください。献金感謝のお祈りも、小学校高学年や中学生が祈ってくれてもいいのではないでしょうか。とにかく大人は皆さんを歓迎しています。
さて、子どもが一緒に礼拝をささげることを、礼拝に参加する全員が受け止めたとしても、実際子どもがじっとしていなかったり騒いだりすると、その子どものお父さんやお母さんは、気が気でないでしょう。それはものすごく分かります。なにせ4人の子どもたちをそうして育ててきましたから。あるとき子どもがじっとしていないので妻が申し訳なさそうに少しおどおどしていたら、近くにいた高齢の姉妹が言って下さいました。「子どもはじっとしてへんもんや!」と。ホッとしました。
しかしそういう人ばかりではありません。からだの弱さを覚えている方、体調の悪い方、はやはり子どもの声に、しんどくなる方もおられます。そのような事態のために、和室礼拝堂、そして私たちの教会には分級室なるものがあります。そこに行けば、少々騒いだとしても大丈夫です。安心して大人は礼拝をささげることができます。和室礼拝堂、分級室、母子室は、子どものためにあるのではなく、上記のような状況の中でもしっかりと礼拝をささげたいと願う大人のためにあるのです。ですから母子室では、少し大きな音量で礼拝の音声が流されるといいでしょう。そしてできれば、礼拝の映像がモニターかプロジェクターなどで二面ほどあれば、あちらを向いても、こちらを向いても、大人は礼拝をささげることができるでしょう。分級室は、まちがっても礼拝中に大人が子どもと一緒に遊ぶ部屋ではありません。
以上のようなことを考えていました。本日配布しました成長懇談会のレジュメの中の「託児としてのナースリーの奉仕は必要がありませんし、礼拝中に子どもを遊ばせることは教会の目的にはありません。教会は子どもを礼拝者として育てていくことが必要です」という意味をお分かりいただけたでしょうか。ナースリーの発想は、最初に引用した聖句の中の弟子たちの発想ではないかと思うのです。
また、「安全上、子どものご両親が中心となって配慮してください」の意味ですが、昨今子どもを取り巻く世界はかなり複雑です。子どもが事故やトラブルなど様々なことが起こっています。教会も例外ではありません。子どもは両親が主になって、同時に他の複数の礼拝者が見守っているという環境の中においてあげてほしいのです。そして子どもたちは、良き礼拝者である大人たちに見守もられていてほしいと思います。
以上のようなことは、子どもだけで教会学校にやって来て、そのまま教会にいるというタイプの子どもたちにも当てはめたいと思っています。教会学校が終わっても教会にいるということは、信仰者として育ててほしいとの願いの現れである、そのような願いをだれよりもイエスさまがお持ちになって送って下さった子どもたちである、と私たちは受け取りましょう。それをただ遊ばせて帰すだけならば、残念ですし、やがて子どもたちから、どうして礼拝をささげさせてくれなかったの? と問われることになるのではないでしょうか。礼拝中に別室で遊ばせているということは、実際にはしかたのないこともありますが、子どもを信仰者として大切にしていることにはならないのではないでしょうか。
すぐには難しいことも多いとは思います。また実際には不可能なことだと言われるかもしれません。しかし教会の未来である子どもたちを本当の意味で大切にする教会でありたいと思います。