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聖なる教会を目指して 11

 つづいて第3章の2を読みます。

第3章 ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいでしょうか?

2 私たちの教会でも起こり得るこ思うところから始めましょう

 まず、パワハラ、セクハラ、レリハラは私たちの教団あるいは教会にはあり得ないという思いを捨て、どこでもあり得ることを謙虚に認めることが大切です。主は弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉体は弱いのです」(マタイ26章41節)と言われました。このパンフレットの作成に関わらせていただいたチームの一人ひとりも、今ならば明らかにハラスメントではないかと思われるような言動が過去に自分自身の牧会にあったことを思い返し、恥じ入るものです。
 普段からパワハラ、セクハラはあり得ると認めていると、実際に発生したときに、弁解や自己主張せずに率直に謝ることができるようになります。必要な場合には直ちに対応することができるようになります。ハラスメントはあるはずはないと頑なに主張していると、なかなか率直になることができなくなってしまいます。また、「第2章 ハラスメントはどうして起こるのですか?」で述べたように、「自己愛的人格障害」とは言わなくても、自分には自己愛的な傾向があると感じた場合は、その傾向が正しい範囲の中に保たれ、ハラスメントにならないように心がけることも大切です。
 ハラスメントは、加害者側が正当な理由があると考えることであっても、被害者側が不快に感じる場合にはハラスメントになります。ですから、自己主張や弁解をせずに、「ほかの人のことも顧み」る(ピリピ2章4節)愛と思いやりを持つように心がけましょう。そうするなら、隣人に不快感を与えてしまうことが少なくなるはずです。
 互いに人格を尊重し合うこと。たとえ正論であっても押しつけるのではなく、互いに理解し合えるように努力しましょう。

(インマヌエル綜合伝道団人権委員会、『聖なる教会を目指して―ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいか』、いのちのことば社、2020年7月20日発行、23頁f)

 どこでも、だれでもあり得ることと心得ることが、大前提である、ということでしょう。あの人は大丈夫とか、田中先生やったら大丈夫ということを棄て去るのです(笑)。
 「たとい正論であっても押しつけるのではなく」は心に留まりますね。正論だからこそ私たちは押しつけてしまうのです。正論でなかったら、ちょっと弱腰で主張するでしょう。正論は危険ですね。
 自己愛的傾向のない人はいません。大切なことは、それが「正しい範囲」の中に保たれることです。そうでなければともに生きることができなくなります。相手からの愛に依存する、あるいは成果主義による奉仕の実現や支配欲求によって自分の承認欲求を満足させようとすることから自由になる。そのためには、イエスさまからの絶対的な愛に出会い続けている、ということがとても大切なことでしょう。たとえ他者から見捨てられてもイエスさまの愛は変わりません。


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