「礼拝の根本原理の第二は、真実の礼拝は聖霊の働きからのみ生ずるということである。・・・
礼拝が典礼によって固定化し、自由な霊的表現の余地が失われる時に、不可避的に、貧しいものになってしまう。しかし・・・聖霊によって導かれる礼拝の性格は自由のみでなく、抑制という要素をも含んでいる
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霊とまことによる礼拝とは聖霊によって導かれ、抑制される真の神への礼拝である。」(レイモンド・アバ、『礼拝―その本質と実際』、14ff頁)
「神学的であって便宜的なものではない」礼拝の、第二の原理は「霊による礼拝」ということです。儀式的(典礼的)な礼拝が形式的な礼拝となることは、容易に想像できます。ご聖霊さまが自由にお働きになる活き活きとした礼拝は大切なことだと思います。しかしご聖霊さまの自由は、私たちの自分勝手、放縦に任せられた礼拝というのではありません。それでは便宜的な礼拝になってしまいます。御霊に導かれた礼拝は、自由とともに抑制があるということです。「抑制」とは「おさえとどめること」「精神的・生理的な機能が、他の機能をおさえて、その実現をさまたげること」(広辞苑)とありました。思いつきと感情のままの礼拝は、霊的な礼拝とは言えないということですね。
自由に祈る、というのですが、私たちは本当に自由に祈ることができるのでしょうか。結局いつもの言葉を繰り返しているだけではないでしょうか。主の祈りは同じ文章であるという点では形式的かもしれませんが、私たちは日ごろ祈る祈りも案外形式的ではないでしょうか。形が決まっていると、安心して「ささげる」ということに集中することができるものではないかとも思います。