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礼拝の原理~啓示と応答

「キリスト教礼拝の根底は、神学的であって便宜的なものではない。したがって、その具体的表現は基本的原理によって支配されている。」

(レイモンド・アバ、『礼拝―その本質と実際』、11頁)

 「神学的であって便宜的なものではない」。「便宜」とは「ある事をするのに都合のよいこと。便利なこと。・・・」(広辞苑)ということですので、「便宜的な礼拝」といった場合、私たちに都合の良いように礼拝のプログラムや時間設定、礼拝堂のしつらえを操作していく、ということでしょう。キリスト教の礼拝はそのような便宜的なものであってはならないといいます。便宜的ではなく神学的なものでなければならない、というのです。
 では神学的とはどういうことなのか。

「まず第一に、礼拝は啓示に基づくこと、および、キリスト教礼拝は、イエス・キリストにおける神の啓示に基づいているということである。すなわち、礼拝はわたしたちの側からではなく神の側から始まるものであって、神の救いの先行に発する。神が、イエス・キリストにおいて、わたしたちに近づきたもうゆえにこそ、わたしたちは神に近づき、神がまずわたしたちを愛したもうゆえにこそ、わたしたちも神を愛し、そして、また神がわたしたちの全き崇敬と感謝と信頼とをささげるに値いしたもうことを自ら示したもうゆえにこそ、わたしたちは神に至高の価値を帰するのである。礼拝は本質的に応答である。まさに神の恵みの「言」に対する、すなわち、神がわたしたち人間とその救いのためになしたもうたことに対する応答にほかならない。」

(レイモンド・アバ、『礼拝―その本質と実際』、11f頁)

 最大のポイントは「啓示」です。「啓示」とは宗教用語で「人知を以って知ることのできない神秘を神自らが人間に対する愛のゆえにおおいを取り除いて表し示すこと」(広辞苑)とあります。具体的には、私たちが何一つ為すことのできないときに、十字架と復活の御業をなし、贖いの道をひらいてくださった、その神さまの御業が礼拝において明らかにされ、それに対しての私たちが応答する、それが礼拝である、ということです。
 ですから黙祷、すなわち沈黙から礼拝は始まります。私たちは黙するしかないのです。その沈黙の中に礼拝が開始されます。賛美も聖書交読、聖書朗読、説教、祈り、献金、頌栄、祝祷、すべてが神さまの啓示が明らかにされるときであり、またそれに対して私たちが応答するときなのです。

「キリスト教は歴史的宗教である。哲学的思弁や自然秩序の観察の上に成り立っているのではなく、歴史に根ざしている。
・・・
神はその本質が行為によって知られるのである。神はヘブル民族という特定の一民族の歴史における一連のできごとを通してご自身を啓示したもうた。そのできごとにおいて語られた神の言は、預言者たちによって宣べ伝えられ、そしてついにはイエス・キリストにおいて受肉したのであった。神の自己開示であるこの「言」に対しては、礼拝が教会の応答なのである。
それゆえ、受肉、十字架、復活において完成した神の偉大な救いのわざによって、人間は神を示されるが、それはキリスト教礼拝の中心部において、明らかにされなければならない。もし礼拝が本質的に神の言に対する応答であるなら、その言葉は礼拝者の応答がひきおこされる前に、宣べ伝えられなければならない。
・・・
このように礼拝がキリスト教の礼拝であるためには、礼拝者の前に、キリスト教の啓示の偉大な歴史的諸事情が提示され、具体的に表現されなければならない。そこではじめて、礼拝する教会は悔い改めと感謝、そして献身と讃美とをもって応答することができるのである。

キリスト教の礼拝行為全体は、キリスト教のおもなる主題を劇的に再現することである。・・・わたしたちの罪と死のあがないのための神のみわざを新たに知るあの場所へ導き、またその時と同じ神が同じく罪ある人間を、その時と同じ方法で、同じ世界において救うため、今もなお、働きたもうことをわたしたちに理解させるためである。このようにキリスト教礼拝は、福音を「同時化する」のである。」

(レイモンド・アバ、『礼拝―その本質と実際』、12ff頁)

 ちょっと極端にいいますと、私たちが恵まれるために礼拝が営まれているのではない、ということなのですね。もちろん真実の礼拝には、慰めと励まし、そして恵みがあり祝福があるのですが、そのようなものを「いただく」ために礼拝に集まっているのではないのです。すでに二千年の昔に神さまがなしてくださった十字架と復活の御業がある。その歴史的な事実、出来事があるのです。その十字架と復活の出来事が礼拝において再現され、現代を生きている私たちにおいて同時化されるのです。私たちはその神さまに栄光を帰す。それが礼拝なのですね。
 これに対して多くの宗教は、祝福を「いただく」ための礼拝行為になっている部分が多いのではないでしょうか。もしキリスト教会がそこで祝福をいただくための「便宜的」な礼拝、あるいは自分たちの好みに合うような、あるいは自分たちに都合のよいような礼拝をはじめてしまったら、キリスト教の礼拝でなくなってしまいます。結果的に真実の祝福が見失われてしまうのではないかと思われます。


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