つづいて第2章の4を読みます。
第2章 ハラスメントはどうして起こるのですか?
4 私たちの教会は大丈夫と思いたい落とし穴
必ずしもカルトではないのですが、カルト的な方向性が内包されている牧会理念は、ハラスメントの土壌になる可能性があります。信徒たちは指導者の指導や主張を絶対化するようになります。指導者が言うことは無条件に受け入れるようになります。こうした中で、信徒は金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得され、指導者から性的関係を強要されることさえあります。
「私たちの教会にはそんなことはありえない」と思わないでください。異性の信徒との距離感は本当に大丈夫でしょうか? 自分では普段の何気ない牧会の場面だと思っているところでハラスメントは起こります。
たとえ教会であっても、ハラスメントによって隣人を傷つけるようなことがあれば、カルト化した集団となってしまうこともあり得ます。「目的を達成するために手段を選ばない」熱狂主義に陥り、成果を得ることを第一とするあまりに、隣人(信徒)の心身の健康、財産を奪い、相手に祈ったり考えたりする時間を与えることなく、即座に服従するように求めてしまうでしょう。(インマヌエル綜合伝道団人権委員会、『聖なる教会を目指して―ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいか』、いのちのことば社、2020年7月20日発行、18頁)
異性を自分の運転する自動車に助手席に乗せない。異性と二人っきりになる場面をつくらない、といったルールが大切なことは先のページでも書きました。さらには「熱狂主義」という言葉がありましたが、奉仕を強要する、信仰スタイルを指導する、などは徐々に進行していく支配なのかもしれません。それを聖書の言葉を用いて強要したり指導したりするので、聞いた方もそれを善と受け取らざるを得ないことになり、結局相手の支配のもとに縛られることになります。聖書の言葉は、人を生かすためにあるのですから、自分の自己主張を補充するためや支配欲を満足するために用いることは、ハラスメントの始まりと心得た方が良いようですね。
神学校の時に、沢山のみことばを覚えている神学生がいました。彼があるとき聖書の言葉で自分の論を展開していたのですが、それを聞いた教授が厳しい口調で「聖書の言葉を乱用してはいけません」と指導しておられたことを思い起こします。イエスさまはまことの言葉なるお方ですが、聖書の言葉を自分の欲望のために濫用することは、すなわちイエスさまを道具にしているということでしょう。