一息ついて続きを読んでみましょう。
第2章 ハラスメントはどうして起こるのですか?
1 背景にある精神的な傾向性
マリー=フランス・イルゴイエンヌ(精神科医、家族心理療法家。「モラル・ハラスメント」の概念を提唱した)は、「モラル・ハラスメント」(パワハラ、セクハラ、DVを含む)の加害者には「自己中心である、人から称賛されたい、批判を認めない」などの「加害者に特有な自己愛的な性格」が見られると述べています。そうした性格はだれもが多少は持ち合わせているものですが、ハラスメントの加害者になる人は「内心の葛藤を自分自身では引き受けられない」ために、きちんとコントロールしてその場で終わらせることができず、「絶えずだれかを自分の利益のために操り、また破壊しよう」とする、つまり加害者は、自己愛的な傾向を持っている、としています。そして、「自分の身を守るために他人の精神を平気で破壊する。しかも、それを続けていかないと生きていくことができなくなる」と記しています。表現は強いかもしれませんが、そのような傾向が自分にないかチェックしてみることは大切です。(『モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない』pp.209-210)
マリー=フランス・イルゴイエンヌは、自己愛的な人格の特徴を8つ述べ、そのうち5つ以上の項目に当てはまる人は自己愛的人格障害であると診断されると述べています。自己愛的人格障害については多方面からの研究著作があり、すでに一般社会でもキリスト教会でも、定着した認識になるつつあります。8つの特徴は、簡単に紹介すると次のような内容です。(1)自分は強くて、重要な人物だと思っている
(2)自分が成功したり、権力を持ったりできるという幻想を抱き、その幻想には限度がない。
(3)自分が特別な存在だと思っている
(4)いつも他人の称賛を必要としている
(5)すべてが自分のおかげだと思っている
(6)人間関係の中で相手を利用することしか考えない
(7)他人に共感することができない
(8)他人を羨望することが多い(前掲書pp.211-212)
こうした自己愛的な傾向を持った方とは会話がかみ合いません。なぜなら、自己愛的な傾向とは自分を過度に大事に考えるパーソナリティーの傾向であり、そのために自分を客観視することがなかなかできないからです。問題があると指摘されても、自分に問題があるとは考えません。
(インマヌエル綜合伝道団人権委員会、『聖なる教会を目指して―ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいか』、いのちのことば社、2020年7月20日発行、15頁f)
ここでは「自分を客観視できない」という言葉に心が留まりました。イエスさまを信じる信仰生活は、自己中心からイエスさま中心になるということです。私たちはイエスさまをという「絶対的な存在」に出会いました。それは、イエスさま以外のものはすべて「客観的な存在」である、ととらえる人生となったということです。私たちが最も客観的に見ることができないのが自分自身でしょう。その自分自身を「客観的な存在」とする、ということがキリスト教信仰の恵みなのです。
ところがときおり、自分を客観視するどころか、自分を絶対視することが信仰によって強化されてしまう、ということが起こります。聖書はそれを「偶像礼拝」と表現しているのだと思います。
自分を絶対視してはいないだろうか、と振り返ることが大切なのだと思いますが、それをさせてくれるチャンスが、人からの助言や指摘でしょう。あるいは教会の規則や、その歴史の中で培われてきた信仰のスタイルでしょう。誰でも人からの助言や指摘に耳を傾けることは難しいものです。また個人の自由に最高の価値を見いだそうとする現代においては、教会の規則や歴史、あるいは伝統というと、ちょっとじゃまくさいことかもしれません。しかし、イエスさまを信じるということは、そのような恵みに生きる者と変えられるということなのですね。