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聖なる教会を目指して 1

今年の4月5日の牧羊会にて、外部講師を招いての研修会が行なわれました。おもに、ある教団の重大なセクハラ問題を取り上げ、教会における取り組みの大切さが語られました。それにまつわっていくつかの本が紹介されましたが、その中の一冊を拾い読みしてみたいと思います。

 この本は序文に日本バプテスト連盟セクシュアル・ハラスメント防止・相談委員会の委員である方の言葉が記されています。本書はインマヌエル綜合伝道団人権委員会の発行ですが、この序文の中に、「2019年度には10の教派・教団の代表者が集まって』開催された会議のことに触れられています。教団・教派を越えてのテーマであるといことで、ことの重大性を考えさせられます。

ます「はじめに」という章があります。その内容は

はじめに このパンフレットについて
 1 背景―聖なる教会を目指して
 2 目的―理解を深めるために
 3 使い方―主のあわれみを祈り求めて
 4 範囲―包括的な理解のために

ここで心に留まることは、この本の使い方として、誰かをさばくためではなく、聖なる教会を目指すということが目的である、ことが強調されていました。
次に「ハラスメントとはどのようなことですか?」という章に続きます。

第1章 ハラスメントとはどのようなことですか?
 1 セクハラ―受ける側が不快に感じる
 2 パワハラが土壌にある
 3 当事者性の欠如
 4 結果の重大さ

以下、この章の全文を書き出してみました。

第1章 ハラスメントとはどのようなことですか?
1 セクハラ―受ける側が不快に感じる

 ハラスメントとは「優越した地位や立場を利用したいやがらせ」(広辞苑)のことです。セクハラ(セクシャル・ハラスメント)もハラスメントの一つであり、性的に不適切な、受ける側が望まない言動のすべてを言います。行為ばかりでなく、言葉や身振りや文書による場合もありますし、パソコンやスマホを利用して行われることもあります。受ける側は、人格の尊厳を傷つけられ、肉体的、精神的に傷を受けます。重要なことは、

「受ける側が不快に感じている」

ということです。自分はその場の雰囲気を取り繕ったとしても、被害者には傷として残ります。

2 パワハラが土壌にある

 セクハラはパワハラ(パワー・ハラスメント)と無関係ではありません。つまり、セクハラは上司や部下に、教師から生徒にという具合に、優越した地位や立場を利用して行われることが多いからです。キリスト教会内で発生したセクハラのほとんどは、弱い立場にある信徒や教会学校生が教会の指導者から受けるという構図で行われました。しかし、牧師から信徒という関係以外の関わりの中で行われることもあります。牧師がハラスメントを受ける立場に立たされる場合もあります。信徒同士で起きることもあり、様々な状況が想定されます。
 加害者は自分がセクハラをしているとは思っていません。むしろ愛の表現であるとか、愛をもって指導していると思い込んでいることもあります。
 健全な関係とハラスメントとの違いを聖書の中に見ることができます。ガラテヤ6章1節によると、指導する人は「御霊の人」であり、「柔和な心で」指導します。「自分自身も誘惑に陥らないように」目を覚ましています。またⅠペテロ5章2,3節によると、「卑しい利得を求めてではなく、心を込めて」神の羊を牧します。「群れの模範」となるように努めます。どこまでも羊のことを考えます。パウロのように、兄弟姉妹の信仰を支配するのではなく、徳を建てるように心がけ、教会に仕えます。指導する内容がキリスト者の成長であったとしても、それを押しつけるようなことはしません。謙虚に模範を示すことを心がけます。つまり、健全な指導には謙遜が伴うということです。
 パワハラはそれとは対照的です。相手のことよりも、自分を中心に行動します。自分が正しいことを語っており、間違ったことはしていないと、自分の義を主張します。話すときには上から目線で話し、時には威圧的になったり、攻撃的になることもあります。兄弟あるいは姉妹の人格を尊重する以上に自分の働きの成功を優先させます。時には、理不尽なことを要求し、聞き入れないとその人を無視したり、教会での奉仕を取り上げることすらあります。そこには寛容は見られません。
 明らかなセクハラが行われた、あるいは理不尽な扱いを受けたなど、極端な例はそれほど多くはないと思います。しかし大変残念ですが、公表されている事例もあります。私たちはこうした問題が起きる可能性があることを謙虚に認めて、防止に努めたいと願っています。
 セクハラをはじめとして極端なハラスメントは必ずしもすべてが表立って現れるとは限りません。セクハラを感じながら人知れず悩み、表ざたにして加害者を傷つけたくないという思いから、ひそかに教会を去ってしまう場合もあり得ます。たとい牧師の言動を不快に感じていても、拒絶し抵抗できないために、されるままになってしまう場合もあります。

3 当事者性の欠如

 加害者の側では、自分が加害者であると自覚していません。相手が不快に感じていることに気づかず、愛の表現として行っていると主張することもあります。また、「自分こそ霊的だ」と思っていたり、「指導」という言葉を好んで使うとしたら注意が必要です。被害者の人格を尊重するよりも、自分の正当性と主張するからです。ハラスメントは、自分が気づくことができないからこそ起こり得るものです。ですから、

「自分には関係ないと思われた方こそ要注意」

なのです。自分は大丈夫と思う発想がハラスメントを生み出す土壌になるのです。牧師は例外なく、「気づかないだけで、自分もしているかもしれない」という謙虚な認識が欠かせません。「聖なる歩みをしているなら、そんなことはあり得ない」と思いたいのですが、ハラスメントはいつでも起こり得ることを謙虚に認め、起こさないように目を覚ましていたいと願っています。私たちはだれでも、いつ被害者になるかもわかりません。同時にすべての人が例外なく、いつ加害者になるかもわからにのです。自分はいつ加害者になるかわからないという当事者意識を持つことが大切です。この意味での当事者性が欠けていることがハラスメント問題の本質なのです。

4 結果の重大さ

 ハラスメントは、加害者が、自分がハラスメントをしているという認識がないまま起きることがあります。加害者がどのような意識だったとしても、加害者が受けるダメージは小さくありません。その日から自分の生きる世界が一変してしまったり、メンタルを病んで一生そのハンディを抱え込んだまま過ごさなければならなかったり、自死に追い込まれたりするケースもあります。教会を去っていった方もあるかもしれません。このような重大な結果を招かないために、自分は、被害者になる可能性もあり、同時に加害者になる可能性もあるという謙虚な認識を持っていたいと思います。

(インマヌエル綜合伝道団人権委員会、『聖なる教会を目指して―ハラスメントを起こさないためにはどうしたらよいか』、いのちのことば社、2020年7月20日発行、11頁ff)

 私は牧師ですから、教会において一番ハラスメントの加害者になる可能性を持っているのだと思います。この章ではくり返し「謙虚」「謙遜」という言葉が記されているのが心に留まりました。この本は小冊子なので、できる限り引用しながら読んでいきたいと思います。次回に続きます。


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