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「按手」ということについて

 聖餐式は本来毎回の礼拝にて行うものですが、私たちの教会では伝統的に第一日曜日に行ってきました。ということで今日は聖餐式を行う日でしたが、二年ぐらい前からコロナ感染症対策として飲食をやめて以来、聖餐式も行って来ませんでした。この4月から、せめて聖餐を覚えて黙想の時を持とうということになり、今日も聖餐について思い巡らす時を持ちました。今日は、聖餐に先立つ聖書の説き明かしの大切さ、聖霊を求める祈り(エピクレーシス)について、黙想しました。
 さてその中で「按手を受けた者が聖餐式を執り行う」と語ったのではないかと思い返しています。ちょっと説明が必要かな、と思いましたので、つらつらと書いてみました。

 「按手」。あんしゅ、と読みます。意味は、手を置く、ということです。私たちの団体では正教師になるときに、その時の理事の先生たちから按手を受けます。大抵は団体総会の時に、信徒代議員も出席されている礼拝において、按手の祈りの時がもたれます。理事の先生方が、ひざまずいた正教師になる伝道者の頭に手を置いて祈るのです。こうして按手を受けた教職は、それ以降サクラメント、すなわち洗礼と聖餐の執行が可能となります。つまり洗礼と聖餐は、按手を受けた伝道者でなければ執行できない、としているということです。

 赤木善光先生が『聖餐論』の付論の中で「なぜ按手礼が必要なのか」という文を書いておられます。その中に次のような文章があります。

「『同じ人間なのに、キリスト教においてはなぜ特定の人間のみが、そのように特別の権威と意義を有するものとされているのか』『そのような特別の人間を救いの媒体とすることは、神の前ではすべての人間は平等であることを明言している聖書の信仰にとって、不当ではないか』『聖書やサクラメントはよい。しかし特定の人間がそれらと等しい、あるいはそれらに準じる宗教的意義を有するということにはがまんができない』。おそらく現代のキリスト者はこのような問いを提出するであろう。これが今日、いわゆる万人祭司主義をかかげるプロテスタンチズムにとって、教職制が特に困難な課題となっている理由である。」
(赤木善光、『聖餐論』、272頁)

 今日では「プロテスタンティズム」といわれるところを「プロテスタンチズム」としているところがほほえましいですが、それはともかくここに「教職制が特に困難な課題」とあります。これは日本キリスト教団ならではの問題かもしれませんので、私たちはあまり考えることがないかもしれません。よって問題意識は少なのだと思いますが、洗礼と聖餐は、どんなに信仰生活の経験が豊かで、聖書的知識が深かったとしても、また敬虔な生活がそこにあったとしても、もし按手がなされていない教職ならば、執行できない、ということ。逆に、按手がなされている教職であれば、よほどの否定的な材料がない限り、洗礼と聖餐を執行していただくということ。このことがゆるがせになると、洗礼と聖餐も恵みが霧散してしまうのです。

「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。」(第一コリント10・16,17)

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1・23)

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15・5)

 これら聖句が語っているのは、教会はキリストのからだである、キリストのからだである教会は、一本のぶどうの木のようである、イエスさまご自身がその幹であり、私たちはその枝である。このイエスさまという幹につながってこそ、私たちは豊かな実を結ぶことができる、聖餐式においてパンを食するということは、そのキリストのからだを食すること、キリストのからだにあずかることである、ということでしょう。聖餐において、パンとぶどう汁にあずかることによって、信仰者は、一つのイエスさまのからだにつなげられている、あるいはつなげられていることが確かにされる、その一つのイエスさまのからだである教会とは、あの聖霊降臨の日に生まれた教会であり、二千年間生き続けて来た教会であり、そして今日、私たちが出席している教会のことです。使徒信条において公同の教会を信ず、と告白している教会であり、また実際にメンバーシップをもって集っている教会のことです。
 聖餐の最初は、最後の晩餐の時であり、文字通りイエスさまご自身がふるまって下さいました。使徒たちは「私は(も)主から受けたこと」(第一コリント11・23)としてそれを続けてきました。このコリント人への手紙を書いたパウロは、最後の晩餐の時にはその場にいませんでした。しかしそのパウロが、主から受けた、というのです。おそらく12人の使徒のだれかから受けたに違いなのです。にもかかわらず、主から受けた、というのです。つまり聖餐式を執行する者は、実際にはいろいろな伝道者であるにもかかわらず、「主から受けた」ということが明らかにされるような式を行ってきたのです。今日も牧師さんがパンとぶどう汁とを分餐されたけれども、実はイエスさまがテーブルマスターとなって今を生きる私に分餐してくださったことなのですよ、と皆は信仰の心もって了解しているのです。その根拠が「按手」なのです。
 聖霊降臨によって、一人ひとりの上にとどまったご聖霊さまが、その後「手を置く」ということを通して、その恵みが付与されていきます(使徒6・6、13・3)。そうして「手を置く」ということが連綿と続き、職制が継承され、キリストのからだは歴史の中に拡大して行きました。私たち一人ひとりは、東近江にある一教会に属していますが、実は、二千年の昔、聖霊降臨にはじまった「一つのキリストのからだ」につなげられている教会に属しているのです。もちろん私たちだけではありません。世界に広がる教会、また歴史に起こり続けた教会は、一つのキリストのからだであり、そこに集う一人ひとりの信仰者はその幹につなげられた枝なのです。だから実を結ぶことが可能となります。もし按手ということのない教職による聖礼典が行われ始めると、そこでこのキリストのからだは断絶します。一つのキリストのからだではなくなります。幹につながる枝でなくなるのです。

 聖餐の時に前に立つ牧師が、少しほりの深い顔、長髪で髭ずら、白い衣を着て、すらっとしていると、ああイエスさまだな、という想像は堅くないので、テーブルマスターのイエスさま、というイメージが湧きやすいでしょう。しかし四角い顔でも三角でも丸顔でも、背広を着ていてもガウンであっても、何人であっても、男性であっても女性であっても(これは教派によってはちょっと微妙なところもありますが、私たちの団体は完全にOKです)、按手を受けている伝道者が聖餐を執行する時、そこに立っていてくださるのはイエスさまなのです。どんなに映画に出てくるイエスさま像にそっくりでも、按手を受けていないならば、そこには真のテーブルマスターが存在せず、従って枝が幹につながることがなく、よって配られるものが実を結ぶことがありません。

 と、こんなことを考えてみました。


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