イエスさまを信じて神の子とされた私たちは洗礼を受けて教会のメンバーとなります。それは宗教団体に所属する、というよりも、イエスさまのからだである教会の「新芽」として芽吹いた喜びを表しています(ヨハネ15章、エペソ1章23節)。そのイエスさまのからだである教会とは、初代教会から連綿と続く歴史の教会であり、使徒信条で告白する公同の教会のことであり、また公同の教会への信仰を告白する一つひとつの地方教会のことです。
洗礼を受けてからの時間はそれぞれ長い短いがありますが、同じ神の子として平等に信仰生活を送ります。誰かが誰かを支配したり、コントロールするということはありません。信仰者を導くのは聖書の言葉であり、三位一体の神であり、またイエスさまご自身です。
第一コリント12章に記されていることは、教会の中において、賜物の違いによって信者間に優劣があると主張した者がいた、ということでしょう。例えば、教える賜物があるから一目置く、とか、預言の賜物があるから偉い、とか、異言が話せるから霊的なレベルが高いのだ、とか。それに対してパウロは、互いに違いがあってよい、その違いによって互いに優劣はない、皆が同じ一つのからだにつなげられているのだ、と語ります。「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです」(22)と、人間的基準での優劣によって差別や区別を生み出すことを完全に否定しました。そして最も優れた賜物とは愛なのだ、と13章に続きます。違いがあるからこそ、愛が必要であり、また愛が生まれるのです。
ですから教会では、誰かに対して、あの人は信仰があつい、という言葉は、謙遜の心をもって語られる場合には許容されるかもしれませんが、誰かをさして、あの人は信仰が薄い、信仰レベルが低い、という言葉は許容されません。私たちの教会では、弱さのままに、互いを大切にすることこそ、教会の在り方であると考えています。
パウロは、ピリピ人への手紙の中で「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2・3)と語りました。互いに人を自分よりすぐれた者と思う。それが信仰にあつい人の生き方です。もし、誰かが誰かを指さし「その信仰が薄い、低い」と語られたとすれば、そのように語った人自身のいわゆる信仰の薄さが露呈されていることになります。
イエスさまがご自身の弟子として召された12人は、さまざまな弱さを持った人たちでした。わざわざそのような人を召されたのがイエスさまなのです。私もあの12人に負けず劣らずとんでもないものなのですが、こうして神さまの子としていただいた、そのイエスさまの愛にただ感謝をささげて日々を生きています。