聖書の学びにコンピュータが導入されて以来、単語の検索がずいぶん容易になりました。昔はコンコルダンスと呼ばれる語句辞典が必要だったのですが、私の本棚にある「LISOWSKY」も「W.F.MOULTON、他」も「名尾耕作」もすっかりほこりをかぶっています。
先日の日曜日の説教箇所(マタイ2・13~23)の中で、預言の成就としてホセア書、エレミヤ書の引用句があり、それは旧約聖書の文脈からは少し外れているような引用である、また23節の「この方はナザレ人と呼ばれる」も旧約聖書には存在しない言葉であるとお話ししました。旧約聖書を「ナザレ」で検索すると何もヒットしないということです。
疑問を持たれた方もおられるかもしれませんので、いのちのことば社発行の『新聖書注解』から該当箇所を引用しておきましょう。
<この方はナザレの人と呼ばれる>という句は、旧約聖書のどこにも見出せない。<預言者たちを通して>という複数の表現から考えられることは、マタイは正確な逐語的引用をしようとしているのではなく、<預言者たち>が、メシヤが人にさげすまれることを預言しており、そしてそのメシアは「ナザレのイエス」と侮られて呼ばれるようになることを指して、預言の<成就>としているととるべきであろう。(増田誉雄、82頁f)
(『新聖書注解 新約1』、増田誉雄・村瀬俊夫・山口昇編、いのちのことば社、1973年)
ここに「逐語的引用をしようとしているのではなく」ということばがあります。一語一句の逐語霊感説に立つグループには少し違和感のある文章かもしれません。聖書は聖霊さまによって、霊感によって書かれているのですが、それはいわゆる「お筆先」ではないということです。聖書は信仰に生きる教会の中で書かれました。つまり聖書に先立って教会の存在があるということです。これは聖書を読めば明らかです。その教会の教えの宣教のために書かれたという明確な目的がありますから、その目的に従って読むことが聖書をより深く知る道である、ということです。
そのうえで今回の聖句も読んでみると、そこに初代教会のあつい信仰を読み取ることができるでしょう。すなわち旧約聖書に登場することもないような村にイエスさまは住まわれることを喜びとされたということで、それはまさにどのようなところであっても、世の終わりまで自分たちとともにいてくださる神のお姿そのものである、というあつい信仰です。
「預言者たちを通して『彼はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった」(マタイ2・23)は、預言者たちが「一言も記すことがなかった」ということを通して「語られたこと」と理解してもよいかもしれません。聖書は書き記されたことによって私たちに豊かに語るとともに、書き記さないということを通しても大切なことを豊かに語っているのでしょう。ますます聖書が面白くなってきましたね。