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一般啓示と特殊啓示 あるいは公的啓示と私的啓示

宗教には大きく二つに分けて、自然宗教と啓示宗教があると思います。キリスト教会は啓示宗教です。

自然宗教は「あの山で祈ったら聞かれたので、あの山は霊験あらたかだ」「この川でお清めをしたら病気が治った。何か霊的な力があるに違いない」「この人物が祈るとことごとく聞かれる。この方は霊的な力をお持ちなのだ」というぐあいに、なにかの現象や出来事によって、自然的に生まれてくる宗教のことです。ですから自然宗教には教理がありません。あったとしてもころころと変わる、変化するのをその特徴とするでしょう。神道などはその一つだと思います。仏教も日本化されていく中でそのようになっている部分があるでしょう。人間の体験によって変化する、それが自然宗教であるといえるでしょう。倫理や道徳もその状況によってさまざまに変化します。

それに対して啓示宗教は、人間の経験の中には全く存在しないものが「上から」啓示されて生まれる宗教のことです。ですからキリスト教には閉じられた経典(聖書)を正典としていますし、教理があります。信仰生活で迷うことがあれば、聖書に帰る、教理に照らし合わせるということをします。そうして自分自身を、あるいは教会を軌道修正します。聖書の真理は変わらないので、自分の方を矯正するのです。人間の体験がいくら素晴らしいものであっても、それが聖書と教理に照らし合わせて、合致しないならば、人間のほうを軌道修正します。ですから倫理や道徳が成立しやすいのです。

さてそのうえで、啓示宗教の「啓示」にも二種類があります。一般啓示と特殊啓示、あるいは公的啓示と私的啓示、ということばが当てはまるでしょうか。つまり誰にでも当てはまる啓示とその人にしか、あるいはその同じ人であってもその状況の中でしか当てはまらない啓示があるのです。そしてこれが混乱するとき、教会は混乱し分裂し、消滅します。

たとえば、イエスさまが十字架の上で死んでくださった、それは私のためであった、私は罪の一切を赦されて、永遠の命をいただきました、というのは、一般啓示、公的啓示なので、誰にでも当てはまります。あるいはこれを信じ受け入れなければ、キリスト者であるとは言えません。これが語られなければキリスト教の集いであるとは言えません。

それに対して、特殊啓示、私的啓示というのは、病にかかったけれども祈ることで癒された、とか、受験のために祈ったら合格することができた、ということで、その人、その状況の中でのみ当てはまる、一回限りの特別なことです。

キリスト教会はこの二つを大切にしてきました。

ではこの二つが混同されてしまうときとはどのようなときでしょう。それは、特殊啓示、私的啓示がまるで一般啓示、公的啓示であるかのように語られてしまうときです。特殊啓示、私的啓示は語られていいわけですが、それは一般啓示、公的啓示ではないということが了解されている中で語られる配慮が必要です。

たとえば健康な教会はいわゆる「いやしの集会」をあまり積極的にはしません。それはいやしを信じていないからではありません。いやしは上記の区別でいうと、特殊啓示、私的啓示の範疇だからです。しかし十字架と復活を語る伝道集会をします。それは十字架と復活は一般啓示、公的啓示だからです。

これがあやふやになるときとして「証し」の取り扱いは大切だと思います。証しは、キリスト教用語だと思いますが、目に見えない神さまは生きて働いておられるということを、目に見える私たちの言葉や行動で明らかにすることです。証しは大切なことです。その中には、二つの啓示が語られていることでしょう。十字架と復活への信仰が語られることもあれば、個人的な祈りの答えへの感謝も語られることでしょう。礼拝において、家庭集会や祈祷会において証しが語られることは大切なことですが、そこで混乱が起こることもまた教会の現実です。

ですから配慮が必要というのは、証しの時にそれは特殊啓示、私的啓示が含まれているということを、聞く者が了解できるような配慮が必要であるということです。礼拝人数も20~30人ならば、つまり学校でいうと一クラスぐらいならば、参加者の状況も理解しやすいので大きな問題は起こりにくいでしょう。しかし50人を超えると、牧師もそこに参加している人がどのような状況の中におられるのかを把握できているわけではありません。私的な体験として語られたことが、ああキリスト教というのはそういう宗教なのかと誤解されたり、あるいは「あの人あんなことゆうてはったで~」と言葉が独り歩きしてしまったり。ですから配慮のしやすい、できれば小さなグループ、あるいは参加者の状況が把握しやすい豊かな交わりの中でなされていくことが、証しとしてはよいのではないかと思います。話す方も安心して話し、聞く方も安心して聞くことのできる状況の中で、質問も説明もできる中でなされていく証し、ということですね。

教会のカルト化、異端化、あるいは異端に乗っ取られるということが、現在の福音派教会の問題ですが、この辺も大切なポイントなのではないでしょうか。


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