ところでこの十人のらい病人たちは、彼らが願っていたことを叶えていただいた。ところが彼らのうち一人だけが引き返してきて、その愛を‐すなわち彼が「イエスさま、先生」と叫んだのは彼の真剣な思いであったことを、証しする。それに対して、他の九人は、自分たちの癒しをどこか別の所で祝っていたのである。彼らにとっては、今やイエスという先生は、以前の半分も愛すべき方ではなく、興味ある方でさえなく、握手する値打ちのある方でさえない。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、312頁
ルカの福音書17章17節
2012年09月25日(火)
主イエスさまがいやしてくださったのですから、主イエスさまの所に戻ってきて主イエスさまと一緒にお祝いすべきです。しかし9人はどこか別の所でお祝いをしていたのです。彼らにとっては主イエスさまは「道具」だったのです。神さまを自分の願いを実現してくれる便利な道具にしていては、人生に祝福はやってきません。
私たちにとって、この一人のように主イエスさまの所に戻ってきて感謝をお捧げする所はどこでしょうか。それは日曜日の礼拝です。日曜日の礼拝を大切にできないということは、9人のようにどこか別の所でお祝いしているということであり、神さまを自分の願いを実現するための道具にしているのです。