教理とは聖書と過去の教理伝統にも証言された「福音」という誤ることなき「宝」を盛った誤りえる「土の器」(第2コリント4・7)なのである。それは、誤りなき「福音の真理」を収める機能を持つかぎりは「不可謬性」の宝の輝きを内より放つ。しかし過ぎゆく誤りえる文化的―言語的、歴史的、哲学的な表現の器であるゆえに、それ自体は「可謬性」の脆さ、弱さ、可変性を否定することはできない。
棚村重行、『現代人のための教理史ガイド―教理を擁護する』、教文館、2001年2月15日発行、27頁
福音の真理は、不可謬性、すなわち誤るということがありません。それに対して「教理」は、その福音の真理を収めた「土の器」なので、可謬性の脆さ、弱さ、可変性を否定することができない、つまり完全ではない、誤りが含まれている可能性がある、といいます。
「再臨と空中携挙」を例にあげるとすれば、主イエスさまが審きのために再び来てくださる、ということは、使徒信条でも告白することで、それは福音の真理ということができると思いますから、変わることがない、誤りが含まれている可能性はない、ということができます。それに対して、具体的にどんなふうに来られるのか、再臨の時は千年王国の前か、後か、はたまたすでに千年王国の最中なのか、などは、すべて「教理」ということができるでしょう。ですからそれには誤りが含まれている可能性がある、ということです。
ですから教会が健康な教会生活を保障し、またそこに生きる信仰者たちが健康な信仰に生き続けるためには、変わらない福音を宣べ伝えることとともに、変わる教理のその変化を許容する必要があるでしょう。再臨では信者は文字通り空中に引き上げられるのだ、と信じる人も、そうでない人もお互いにお互いを受け入れ合うところが健康な教会です。おおよそ使徒信条に告白していない教理は、すべて可謬性の中にあるのですから。
先生たちの教会には、さまざまな「教理」を持つ信徒の方々がお集いでしょう。それはそれで大切に受け止める必要があると思います。しかしその教理が他を否定することになるとすれば、そこで変わることのない福音の真理が輝くために何ができるのか、なかなか難しいことですね。