先日の牧羊会のなかの発題で、山口希生先生の『「神の王国」を求めて―近代以降の研究史』からの発題がありました。発題後、あまり意見交換する時間がなかったので、後日メールにてNTライトの『驚くべき希望』からの文章を皆さんにお送りしたのですが、あらためて思うところを書いておきます。
まず先日の発題の趣旨、すなわち聖書の中の比喩について、聖書の言葉を直接的に読むか、それとも比喩として読むか、といったことですが、NTライトも再臨の個所について以下のように記しています。
私たちの文化では、太陽が「昇る」「沈む」という言い方をする。しかし実際には、太陽に対して私たちが動いているのであって(少なくとも私たちの惑星の場合)、その逆ではないことを知っている。初期のキリスト者も同様に、イエスが「やって来る」、または「戻って来る」という言い方をした。事実、少なくともヨハネの福音書で、イエス自身もそのように語っている。しかし、彼らの語っている全般に鑑みて正しく理解しようとするなら、その言葉遣いは(一般的に使われてきたもので、キリスト教の信条にも沿っているが)今日の私たちにとって、その主張している真理を正しくつかむあまり役立たないかもしれない。
実際、新約聖書は、イエスの民が新しくされた完全な人間として、いつかイエスと対面し、共にいるようになるという真理の表現に、多様な言葉遣いやイメージを用いている。「再臨」という、新約聖書では珍しい言い方がこの議論を占拠するようになったのは、恐らく歴史がもたらした災難だろう。特に北米でよく見られるのだが、このフレーズが文字どおりイエスが上から降りて来て、地から空に昇っていく贖われた者たちと空中で出会うという特殊な「来臨」を指すようになると、さまざまな問題が起こってくる。しかしそれらの問題は、新約聖書の多数の目撃証言を包括的に見るなら、避けられるものなのだ。
最初にはっきりさせるが、巷に広がっている考えとは逆に、イエスは自分が戻ってくることについて、地上での働きのあいだ何も語らなかった。・・・」N・T・ライト、『驚くべき希望』、中村佐知訳、あめんどう、2018年8月30日発行、217頁
この記述が意味する主張はよくわかりのですが、そうなると次に、聖書のどこを直接的に読み、どこを比喩として読むかという問題が出てくるように思われます。そしてそのように判断する基準というか、権威というのをどこに置くか、ということです。
先生方、いかがでしょうか。