「給与」という言葉を用いる限り、どこかに「労働の対価としての報酬」「雇用者と被雇用者」という気持ちを役員や教会員が持ってしまうことがありますが、それでは牧師の待遇を教会の言葉に整えることができなくなってしまいます。牧師就任が任命制であろうと招聘制であろうと、教会は牧師を採用・雇用するとは決して表現しません。そこに牧師の待遇を考える中心があります。
山崎龍一、『教会実務を神学するー事務・管理・運営の手引き』、教文館、2021年5月20日発行、76頁
先日の牧羊会にて発題させていただいたことで、あらためてご一緒に考えたことを書き留めておきます。
宗教法人法的には、牧師のサポートは「給与」と表現されますので、私たちの団体もこれに基づいて「給与」と呼んでいます。しかしこれには、山崎先生も指摘されているように、「労働の対価としての報酬」というイメージがつきまといます。資本主義経済のなかでは、時間労働に対する賃金という考え方で給与が支払われますので、牧師も一日の労働時間、一週間の労働時間が確認され、それに対して、月給という形の給与が支払われていると勘違いします。そうなると奉仕の時間、奉仕の内容、その他に対する対価がサポートということになり、極端な例としては、奉仕が十分でない、と教会によって判断された牧師は、サポートが減額される、あるいは支払われないなどということが起こってきます。あるいは各種扶養手当関係、学費手当関係が、軽減、あるいは削除されることにつながります。果たしてこのような考え方で牧師は力強く奉仕することができるのでしょうか。
これに対して「謝礼」という考え方があります。教会は伝統的にこちらの言葉を大切にしてきました。これには、感謝とまごころ、教会と牧師の信頼関係と教会員の献身が問われる、ということが含まれているようです。あまりよい例ではないと思いますが、例えば結婚式披露宴の司会を関係の有名なアナウンサーに無理を言ってお願いした場合、披露宴が2時間として、1時間2千円で、合計4千円、交通費は実費ですね、のちほど振り込みます、とはならないでしょう。給与としてはそれも可能かもしれませんが、多くの場合は「謝礼」ということで、感謝を精いっぱいあらわす金額が包まれた謝儀袋をのし付きで、感謝の言葉を合わせてお渡しするのではないでしょうか。
牧師ももちろん信徒の皆さんの満足のいくような奉仕が出来ていないという引け目が常にありますので、こういうことは公には言わないことですが、教会の成長ということを考えると大切なことではないかと思います。
ここで紹介した山崎先生の本は、この5月に出版されたばかりですが、ぜひ各教会の役員の方々にはお読みいただきたいものですね。