静まりの時
- テーマ:世界を一つに
- 聖書箇所:ガラテヤ3・21~28
- 日付:2026年10月13日(火)
22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。
聖書はほんらい罪から私たちを解放する書物です。その聖書が、すべてのものを罪の下に閉じ込めた、とパウロは語りました。少し違和感を覚える言葉かもしれません。その違和感を解消するために、この「聖書」という言葉を「律法」と置き換えたくなるかもしれません。
しかし、ここで「聖書は」と語るのにはきっと深い意味があるのだと思います。
「律法」対「福音」、「律法」対「聖書」という二元論ではなく、聖書はすべてを包括するものであり、その中に律法があり、そしてその律法をも含んで福音が語られているのだと思います。
ですから律法によって私たちは罪の下に閉じ込められたのではありますが、しかしそれすらも聖書の語るところであり、聖書がそのようにしたのだ、というのです。
それには目的がありました。いたずらに罪の下に私たちを閉じ込めようとしたのではありません。「約束」が与えられるためだったのです。約束とは、神さまの約束であり、契約のことです。神さまによって救っていただく。解放していただく、福音に出会うという約束です。よって律法は「養育係」、私たちを福音に導くものとなったのです。
「イエス・キリストに対する信仰によって」その約束は与えられます。
今朝の個所では「信仰」という言葉がたくさん出てきますが、共同訳2018では「真実」と訳されています。
「約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。」(22、共同訳2018)
言わんとしていることは、イエス・キリストに対する信仰、といった場合、その信仰は私の手の中にあると考えてしまいます。しかし、信仰は私の手の中にあるのではなく、イエスさまにゆだねることそのものが信仰である、と聖書は語ります。少し誤解を恐れずにいうとすれば、私の信仰という「行い」によって救われるのではなく、ひたすらイエスさまの成してくださった十字架の「御業」によって救われるのであって、その主の愛に私の全てをゆだねることが信仰である、と聖書は語るのです。それを明らかにしようして、共同訳2018では従来信仰と訳されてきたこのピスティスという言葉を、真実、と訳したのではないか。