静まりの時
- テーマ:主を知ること
- 聖書箇所:ガラテヤ4・8~11
- 日付:2026年09月25日(金)
8 あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。
9 しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。
10 あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。
11 私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。
神を知らない、ということは、本来神でない神々、すなわち偶像の奴隷である。無神論がここでいわれている神を知らないということであれば、無神論は、いわゆる中立的な考えではなく、偶像礼拝である、ということができるのではないかと思います。
無神論は、偶像など信じていないというかもしれません。確かにいわゆる異教の神々や人間のつくった像を拝むということ、あるいはさまざまな宗教を信奉するということはしないかもしれない。しかし、そこで拝んでいるものが、自分自身、という偶像であると聖書は語るのだと思います。そしてそれは、奴隷なのだ、と。自分という自分勝手で不確かなものにより頼んでいるとすれば、確かにそれに振り回され、本来の自分を生きることができなくなります。まさに奴隷なのだと思います。
イエスさまを信じた、ということは、神さまを知った、ということです。それは、神さまに知られている、ということと同じです。神さまがまことの神さま、全知全能の神であり、私よりも無限に大きなお方であると信じていることは、そのお方に知られている、ということと等しいのです。もしそうでないならば、そこで信じているのはやはり偶像であるといわなければなりません。
ここで問題となっているのは、イエスさまを信じて新しく生き始めたにもかかわらず、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になろうとしているキリスト者がいたという現実です。
具体的には、日、月、季節、年を守っていた、ということです。これはコロサイ人への手紙の中でも以下のように書かれています。
20 もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、
21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。
22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。
23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。(コロサイ2章20~23節)
ただ季節を感じて生きているということではなく、「縛られて」、「肉を満足させるだけ」になっていることが問題とされています。それらの中には、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行も挙げられています。
因習にとらわれない、ということで、自由という言葉が浮かびますが、その自由によって、人間の好き勝手な礼拝が行われているとすれば、それは、結局人間の奴隷になっていることであり、やはり偶像礼拝と言わなければなりません。
イエスさまを信じてまことの自由をいただきました。それは自分という偶像からも自由にされたことでした。つねに自分を拝みたくなる偶像礼拝との戦いが、信仰生活の大きな一面です。できるだけ人間的なものが、小さくなるような工夫が、教会の歴史の中ではなされてきたのだと思います。
礼拝堂が大きいのは、その権力を誇示するためではなく、また多くの人が収容できるためでもなく、そこに入った人間が小さく見えるためです。礼拝のプログラムが定められたのも、できるだけ人間的なものを取り除くためでした。祈りのことばが整えられたのも、自由の名によってなされる自分勝手な祈りをできるだけ避けるためでした。人間が罪びとであるということがわきまえられていたのです。