静まりの時
- テーマ:主の大能
- 聖書箇所:ヨハネ11章17~44節
- 日付:2026年09月18日(金)
25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」
「復活を信じるか」と主が問われた、と理解すると、マルタに期待される答えは、はい、主よ。私は復活を信じています」だと思いますが、マルタはそうは答えませんでした。マルタの答えは「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」でした。イエスさまがキリストであると信じている、と答えたのです。
そうすると、一見イエスさまの問いに答えていないような気もしますが、イエスさまが問われた問いが「復活を信じるか」ではなく、他のところにあると考えればよいのではないかと思います。
イエスさまの問いはこうでした。「あなたは、このことを信じますか」。では「このこと」とはいったい何であるのか。そのまえにイエスさまが言われたことは、
- わたしはよみがえりです。いのちです。
- わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
- また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。
復活を信じるか、と問われたのではなく、イエスさまがよみがえりである、いのちである。そのイエスさまを信じる者は死んでも生きる。また生きている者も、イエスさまを信じている者はみな、永遠に決して死ぬことはない。つまり、イエスさまを信じているか、イエスさまこそいのちの主である、死をも支配しておられるお方である。そういうイエスさまを信じているか、と問われたのです。
そう考えると、マルタのこの答えは、まさに適切な答えであると思えてきます。
問いに対して答えるとき、私たちは多くの場合、表面的なものに目を奪われて、とっさに返してしまいます。無理もないことです。しかしそれは答えているのではなく、「反応」しているのです。
マルタは、反応したのではなく、観想的な答えをしたのかもしれません。
観想的な答えとは、問われていることの本質を「観」て、「想」いを巡らせながら、さらに広く神さまのみこころを「観」つつ「想」いを巡らせるなかで、必要に応じて言葉にすることではないかと思います。もしかすると必ずしも言葉にしなくてもよいかもしれません。主はすべてをご存じなのですから。