日: 2026年9月15日

  • そこには、およそ四千人の人々がいた

    静まりの時

    • テーマ:主の大能
    • 聖書箇所:マルコ8・1~9
    • 日付:2026年09月15日(火)

    1 そのころ、再び大勢の群衆が集まっていた。食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
    2 「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。
    3 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなります。遠くから来ている人もいます。」
    ・・・
    9 そこには、およそ四千人の人々がいた。それからイエスは彼らを解散させ、

    すでに6章32~44節に記されている出来事とよく似た出来事がここに記されています。6章では五千人の人びとを満腹にされました。今回は四千人の人びとを満腹にされます。

    聖書が主の働きを単純に伝えるだけであるならば、同じような出来事を掲載する必要はないような気がします。同じような出来事を掲載するのには、なにか別の目的があったように思います。

    両者の微妙な違いを比べて考察することもよいかもしれません。しかしそれこそ単純に考えてみると、イエスさまは公生涯において、幾度もこういうことをなさったのだろうと想像します。その都度、弟子たちは、以前になされた主の大能を忘れています。しかし主はその弟子たちを用いて人びとの必要を満たされたました。その主の忍耐と愛を記そうとした、と考えてよいように思います。「主のおられるところにいつも大勢の人びとが集まった。主はその人びとの魂の必要だけでなく身体の必要も満たされた。そのためにいつも自分たちを用いてくださった。その自分たちはというと、いつも主の大能を忘れてしまっていた。しかしそんな私たちを用いてくださったのだ」といった喜びを弟子であるマタイは記したのだと思います。他の弟子たちも同じだったと思います。

    喜びの出来事は、毎回同じようなことであっても、それにあずかった者にとっては、一つひとつがかけがえのない素敵な出来事です。

    日々小さな日記を書いています。日誌といってもよいかもしれません。毎日のほとんどは同じことの繰り返しです。毎日そんなにドラマチックなことが起こるはずがありません。ですから朝食を食べた。読書をした。説教準備をした。など同じことを書くことになります。しかしその一つひとつが、主の大能の業によると考えると、この世界に、そして自分の人生に、全く同じ、ということは存在しません。その一つひとつの違いがたとえ発見できなくても、そこに主がお働きくださったことを感謝の心を持って記すことが大切ではないかと思っています。