静まりの時
- テーマ:主のいやし
- 聖書箇所:ヨハネ5・1~9
- 日付:2026年09月10日(木)
1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
祭りの喧騒をよそに、主は病に苦しむ人びとのところに降られました。そのなかに38年もの間病気にかかっている人がいました。主はその人をご覧になられ声をかけられます。
6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
「良くなりたいか」。良くなりたいに決まっています。病院に行って診察を待つ人たちに向かって、良くなりたいですか、などと尋ねるのはおかしなことです。しかしその待ち時間が38年となると事情は違ってきます。長い年月は人間から「希望」を失わせるのではないでしょうか。どうせ何をやっても良くならない、とあきらめてしまうのではないでしょうか。しかし彼はあきらめていませんでした。主のこの問いは、彼の中の希望を確かめることだったのかもしれません。
しかし彼の答えは、はい、良くなりたいです、ではありませんでした。このベテスダの池には迷信といってもよいと思いますが、水がかき回されたとき、最初に池の中に入った者がどんな病でもいやされるといわれていたのです(3節の欄外注参照)。いやされたい、いやされるためには、池に最初に入らなければならない、1番でなければならない、2番や3番ではいけない・・・。ここにベテスダの池の苛酷な状況がうかがわれます。同病相憐れむ、どころか、他を差し置いて自分が1番にならなければならない。それがこのベテスダの池の状況であり、この38年の患いの中にある人を縛っていました。
「池の中に入れてくれる人がいません」。彼には自分の快復を願う友がいないのです。彼を気遣い、共にその快復を祈る人がいない。なんという38年でしょう。どのような苦しみでも、たった一人でそれを抱えなければならないとすれば、いったい誰がその苦しみに耐えることができるでしょう。そこに主が来てくださいました。事情は一転します。
8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。
この人は、その日もいつものように横たわっていたのだと思います。しかし主の奇蹟は突然にやって来ました。何の前触れもなく、主は御業をなしてくださいます。私たちは、いつも希望に生きることができます。
「床を取り上げて」。床を離れて、床を捨ておいて、ではなく、床を取り上げる。手に持って持ち運んでいく。自らのからだを縛り付けていた床。それを今度は自らの手で持ち運んでいく。新しい人生はそのようにして進みます。
過去の否定的な出来事は、忘れてしまうことも大切ですが、むしろそれがのちの人生を生かしていく。少なくとも、それが自分の生きる根拠になっている。今こうして生きているのは、あの38年があったからである、ことを忘れない。主のみわざがあったことを忘れない。健やかな人生はそのように前進します。