静まりの時
- テーマ:聖別された者
- 聖書箇所:ヨハネ17・12~19
- 日付:2026年01月30日(金)
19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。
他の訳では以下の通り。
19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(新共同訳)
19 彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。(共同訳2018)
聖別する、とは、神さまに献げられることである。それが聖なる者となることである。聖書はそう語っています。倫理道徳的に正しい状態になるというのではなく、神さまのものとなること。それが聖別されるということなのです。
ですから、いくら倫理道徳的に正しい状態になったとしても、それが自分の力である、というのであれば、聖別されていることにはならないのです。
逆に倫理道徳的にあまり正しい状態でなかったとしても、すっかり神さまに明け渡している、委ねている、神さまのものとされている、というのであれば、それは聖別されていることになります。
イエスさまがご自身を聖別した、というのは、十字架においてご自身を献げられたということであり、そうしてご自身をすっかり父なる神さまのものとされた、ということです。その目的は私たちも、イエスさまと同じように、神さまのものとなるためでした。
真理によって聖別される、というのは、少しわかりにくい言葉のように思います。イエスさまはご自身を、真理である、といわれましたので、ここに、イエスさまを当てはめてもよいように思います。イエスさまによって聖別される、と。人間の力や努力ではないのです。
あるいは文字通り、真理、と理解して、うそ偽りではなく本当に、聖別される、と。イエスさまの十字架は、私たちを本当に聖い者としてくださる。十字架は、私たちの罪の赦しのためであっただけでなく、私たちを聖い者とするものであった。そう考えてよいように思います。まさに「罪 汚れをきよむる 奇しき力なり」「罪のしみを抜き去る 奇しき力なり」(新聖歌235)です。
血が私たちを聖くする、というのは、イメージとしてはなかなか分かり辛いものです。旧約聖書の犠牲を学ぶことによって理解が進むかもしれません。
「血」というのは、結局のところ「いのち」をあらわしているのだと思います。
「キリストの血は、われわれの解放の代価、彼が支払った贖いの代価であった。このことは、多くの人の贖いとして、自己自身の命を与えることに関する、福音書における主自身の言葉(マタイ20・28)と一致し、さらには、神のために人々を「あがなう」という見解を述べた黙示録の他の章句(5・9,14・3以下)とも一致する。罪、あるいは、むしろ、諸々の罪が人間をとりこにしたので、キリストは、ほかならぬ、彼自身の生命という代価を払って、この堕落した奴隷状態から、人間の自由を勝ち取った」(ジェームス・デニー、『キリストの死』、椿憲一郎訳、新教出版社、1992年、220頁f)