私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました

静まりの時

  • テーマ:聖別された者
  • 聖書箇所:第1テモテ1・12~17
  • 日付:2026年01月29日(木)

12 私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。

パウロは、主によって自らが宣教の務めに任命していただいたことを主に感謝しています。宣教の務めに任命された理由を「私を忠実な者」と認めていただいたことにあるといいます。有能な者、経験豊かな者と認められた、というのではなく、忠実であること。それが任命の理由であるというのです。人を選ぶ基準は、この世では有能さ、敬虔の豊かさ、賢さなどが基準になるかもしれませんが、教会ではひたすら、忠実さ、が人を選ぶ基準です。これが揺らぐと教会が腐敗します。

13 私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
14 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。
15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

パウロは、自分がどのような者であったのかを振り返っています。「神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者」。とんでもない人物です。しかし極悪非道な人間であったのか、というとそうではありません。むしろ律法に忠実に生きようとした人物でした。その律法に忠実に生きようとしていたときのことを、「信じていないときに知らないでしたこと」と振り返っています。いわば信仰がなかったというのです。律法主義に生きていた自分を、信仰がなかったというのです。

「私たちの主の恵み」は、「キリスト・イエスにある信仰と愛」とともに満ちあふれた。神さまの恵みはそれ自体が満ちあふれていくというのではなく、信仰と愛と「ともに」満ちあふれる。恵みは、主への信仰と愛によって、満ちあふれていく。主への信仰と愛なくして、恵みが満ちあふれることはない。そんな風にも読めるのではないかと思います。

自分は罪びとのかしらであった、といいます。罪びとであることは認めるけれども、誰かと比較すれば自分は少しはましだ、というのではなく、自分は罪びとの最たるものである、というのです。客観的には、パウロよりも大きな罪びとはいたことでしょう。しかしパウロは自らを、罪びとのかしらである、というのです。この告白ができるかどうかが、キリスト教信仰に健やかに生きることができるかどうかの分かれ道です。

16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。

まるで自分が最初に救われたかのようなものいいですが、自分が先例であるといういいかたは、自分を用いて神さまは、人びとを救おうとされている、ということが告白されているのだと思います。自分が救われたのは、自分のため、であると同時に、人びとのためでもある。そして結局は自分が救われたのは、神さまのためであった、と告白するのだと思います。自分が救われたのは、神さまのためであった、神さまのご目的の中に自分は救われたのだ、という告白は、また健やかな信仰を生み出します。

17 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

祈りが記されています。手紙の中で祈るのです。おそらく礼拝の中で読まれることになったであろうパウロの手紙ですが、このようなところでは、聴く会衆が、アーメン、と唱和したことでしょう。


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