静まりの時
- テーマ:解放の約束
- 聖書箇所:ヘブル6・13~20
- 日付:2026年01月20日(火)
19 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
「希望」は、「安全で確かな、たましいの錨」のようなものである。それは私たちを「幕の内側」にまで入っていくものである。
風や波に揺れ動く舟をしっかりとつなぎ留めておく錨。もしそれがないと舟は流され、自分がどこにいるのか、が確かでなくなります。それはまた今後どこへ向かうのかを分からなくさせてしまいます。希望とはそのようなものである。希望がなければ自分が今どこに立っているのかが分からなくなる。そうしてどこへ向かおうとしているのが分からなくなる。ただ波の上を無目的に流されるだけの人生となってしまう。
またこの「希望」は、幕の内側にまで入って行くもの。幕とは、聖所と至聖所とを隔てるものでした。その幕の内側である至聖所には大祭司以外は入れなかったのだと思いますが、主の十字架によってすべての者が入って行くことができるようにされと聖書は語ります。希望は、この幕の内側まで入って行くものである、といいます。
聖の聖なるところである至聖所に入る、ということは、全き贖いに与るということでもあると思いますが、それは今地上を生きる私たちにとっては希望である、ということだと思います。もちろん完全な贖いに与っているのです。しかし自分自身を見ればいまだ罪があり傷がある。完全に罪赦され神の子とされた、とともに、神の子にされる道に歩んでいます。その道を前進する力はこの「希望」である、というのだと思います。
救われた者は、希望という確かなたましいの錨をいただいているので、神の子とされる道に日々歩んでいます。自分に目を留めるだけでは前進できなくなるものですが、神さまに目を向けて、神さまを見上げて、全き贖い、聖めに歩んでいる私であることを見失わす、その希望を確かにしたいと思います。