私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません

静まりの時

  • テーマ:諸国民の光
  • 聖書箇所:第二コリント5・16~19
  • 日付:2026年01月16日(金)

16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

新生も和解もすべて「人の知り方」にかかっています。肉に従って人を知ることをしていては、申請も和解も実現しません。罪びとでしかない私たちであったが、しかしキリストのうちにあるならば新しく造られた者である。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった私たち。神さまとの和解をいただいた私たち。そして和解のことばを委ねられた私たち。それらは、人の知り方が、新しくされることによって実現します。

人の知り方は、自分を知ることと、隣人を知ることです。それらは、「キリストを知る」ことと深くつながっています。もし肉に従ってキリストを知っていただけであるならば、人を知ることができない。そうして新生や和解も実現しない。

肉に従って知るとはいったいどういう意味だろう。肉に従って知らないとはどういう意味だろう。

新しく造られた者、神さまを和解させていただいた者、そして和解のことばを委ねられた者。そのように自分を見る。それが肉に従って知ろうとしない、ということではないか、と思います。肉に従って人を知ろうとしない。それは信仰によって人を知ろうとする、神さまの視点で見る、ということかもしれません。

信仰に生きるということは、知る、ということにおいて全く新しくされる、ということです。


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