教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい

静まりの時

  • テーマ:感謝せよ
  • 聖書箇所:コロサイ2・6~8
  • 日付:2025年12月31日(水)

6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。

キリストを受け入れる、ということと、キリストにあって歩むということが、必ずしも一つではないと聖書は語るようです。キリストを受け入れたけれども、キリストにあって歩むことをしていないという状態が私たちには生まれてしまうのです。ではキリストにあって歩むとはどういうことであるのか。

7 キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。

キリストにあって歩むとは、キリストのうちに根ざすこと、建てられること。キリストを土台として建てること。また、教えられたとおり信仰を堅くすること。他の訳では、信仰をしっかり守る、あるいは、信仰によって強められること。教えられたとおり、というのは、「信仰を堅くせよ」と教えられたとも読めますが、おそらく教えられたことをそっくりそのまま堅く守りなさい、ということだと思います。そうしてあふれるばかりに感謝すること。

感謝はキリストのうちに根ざし建てられるところに生まれる。教えられたとおりに信仰を堅く守る。そういうところに生まれるのだと思います。あるいはそういうところに生まれる感謝こそ、本当の感謝である、ということかもしれません。

それに対して、キリストにあって歩まない、ということはどういうことであるのか。

8 あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。

「空しいだましごとの哲学」「人間の言い伝え」によって歩んでしまうことである。それは「この世のもろもろの霊による」ものに従って歩むことであり、キリストによるものではありません。

この「だれかの捕らわれの身にならないように」の「だれか」ということばですが、他の訳では「人の」と訳して、「人のとりこにされる」とありました。

人とは、他者、という意味だけではなく、まずは自分自身と考えてみなければなりません。人のとりこにならない、ということが、結局自分の思い通り、自分のわがまま放題に生きるということであれば、それは自分という一人の「人」のとりこになっているだけです。

人のとりこになってはいけない、のは、その「人」とは、罪びとだからです。罪びとの代表は、自分自身ですから、自分のとりこにならないことこそ、キリストにあって歩むことです。

そのためには、「教えられたとおり」、が大切であると考えています。教えられたというのは、この場合、教会が教えつづけてきたこと、です。教会には、教えつづけてきたこと、があるのです。パウロも次のように語っています。

3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと・・・
(第一コリント15・3~)

キリスト教は、啓示、の宗教です。啓示には二種類があります。一つは一般啓示、もう一つは特別啓示。一般啓示というのは、イエスさまが私たちの罪のために十字架にかかられ、三日目に復活されたこと、など、すべての人に当てはまるものです。それに対して特別啓示は、日照りが続いたのでそろそろ雨が降らなければ作物が大変なことになるので、雨が降るように祈ったところ、神さまは応えて下さって大雨になった、という、その時、その場所、その人にだけの特別な啓示のことです。

これが極端にごっちゃになるとキリスト教ではなくなってしまいます。単なるご利益宗教というか、キリストということは、口先では言われているけれども、結局内容は他の宗教と何ら変わらない、ということになります。

これにはさらに深い問題が含まれています。特別啓示が、一般啓示と混同されるようになると、信仰が神さまの恵みやあわれみということから離れて行き、人間の祈りの力や、信仰の力みたいなものがもてはやされるようになります。まさに「あの空しいだましごとの哲学」「だれかの捕らわれの身」「人間の言い伝え」「この世のもろもろの霊」というものがその宗教を動かす原理となるのです。

また特別啓示がもてはやされ一般啓示が希薄になると、信仰の中身が希薄になるので、中身が希薄な信仰を保つためには、どうしても、外側、かたち、を強固にしなければならなくなり、信仰を鮮明にするために、他の宗教との、外側的違いを強調するようになり、他の宗教や文化などをも否定するようになります。

こうしてカルト化する道も生まれてしまいます。

教えられたとおりにする、ということは、健やかな信仰に生きるための安全装置なのだと思います。教えられたとおりにすることは、わがままな人間には不得手なことなのかもしれません。教えられたとおりにするためには、謙遜、謙虚さが必要になります。しかし教えられたとおりに信仰を堅くするところにこそ、あふれるばかりの感謝が生まれると、聖書は語るのだと思います。


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