静まりの時
- テーマ:感謝せよ
- 聖書箇所:詩篇126・1~6
- 日付:2025年12月29日(月)
5 涙とともに種を蒔く者は
喜び叫びながら刈り取る。
6 種入れを抱え泣きながら出て行く者は
束を抱え喜び叫びながら帰って来る。
1節を読むと「復興してくださったとき」とありますので、復興が完了したように思います。しかし4節を読むと「私たちを元どおりにしてください」とありますので、いまだ完了していないように思います。復興は完了したのか、それともいまだ完了していないのか。いったどちらなのか。
もしかするとどちらも現実を現していることばなのかもしれません。過去様々な災害が起こりましたが、復興は、完了したのかというと、おそらく完了と言えるのは、まだまだ先と言わざるを得ないのかもしれません。しかし全くなされていないのか、というとそうも言えないのかもしれない。すでに、と、いまだ、の間にある。それが現実です。イスラエルの国家的な危機であったバビロン捕囚からの復興も、この、すでに、と、いまだ、との間にある。これは私たちの人生そのものでもあるとも思います。2千年のむかし、イエスさまの十字架と復活によって、救いの道は完全になされました。すでに、なされたのです。しかし、いまだなされていないというべき現実があります。世界各地では戦争、紛争があり、私たちの罪は完全に消え去ってはいません。それは、イエスさまの再臨を待たなければならない。いまだ、の中に私たちはあるのです。
この、すでに、と、いまだ、を生きる私たちの生き方を現しているのが、5,6節ではないかと思います。いま涙の中にあっても、かならず喜びの時がやってくる。そう信じる生き方です。主にある者はどんなときにも希望に生きる者です。
それにしても、この詩篇の著者は何に涙していたのだろうか、と思います。さまざまな悲しみが想像されますが、ここでは、種を蒔く、種入れを抱えている、というのですから、農作業に従事している者が、その始まりの時に涙している、悲しみに沈んでいるのです。やせた土地だったのかもしれません。気候不順の中にあったのかもしれない。発芽率の低い種を蒔かなければならなかったのかもしれない。あるいはひとりでその作業を進めなければならないような家族の状態だったのかもしれない。稔りに向かうべき時に、先の見えない中、たった一人でその重荷を負う。しかしその萎えそうになる心に、やがて喜び叫ぶときがやってくると語りかけている。歌っている。なんと信仰の力に満ちた歌声であろうか、と思います。
今日も私たちは歌いたいと思います。「喜び叫びながら帰ってくる」と。