静まりの時
- テーマ:主の栄光があらわれた
- 聖書箇所:ダニエル4・34~37
- 日付:2025年12月26日(金)
34 その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。
バビロンの王ネブカドネツァルは理性を失っていました。理性を失って「彼は人の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲のように、爪は鳥のように伸びた」という状態になりました。これはダニエルのことばを無視し「この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか」と高慢になったからです。
高慢は、私たちから理性を奪います。人間らしさを失わせます。
しかし目を上げて天を見ると理性が戻ってきました。理性が戻ると、「いと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた」。神さまをほめたたえました。理性的な人間は神さまを礼拝します。そして神さまへの礼拝は、人間の理性的な行動のなかに生まれます。
36 ちょうどそのとき私に理性が戻り、私の王国の栄光のために、私の威光と輝きが私に戻ってきた。私の顧問や貴族たちに求められて、私は王位に戻り、こうして絶大な権威が私に加えられた。
理性が戻り、神さまを賛美するようになると、社会的な地位が戻り、去っていた人びとが返ってきました。神さまとの関係の回復は、人びととの関係の回復を生みます。
37 今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である。
神さまは「高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方」。ネブカドネツァルは自らの体験を通してこのように告白します。
高慢になるところに滅びがあり、謙遜に生きるところにいのちがある。信仰生活の祝福は、この謙遜に生きるところに生まれます。聖書の読み方も、人間を高慢にする読み方もあれば、謙遜にする読み方もあります。高慢にさせる聖書の読み方には滅びがあり、謙遜になる読み方にはいのちがあります。同じ聖書を読んでいても、たとえそれが聖書的な読み方なのだといっても、高慢になる読み方では依然祝福はやってこないのだと思います。