静まりの時
- テーマ:主の神殿
- 聖書箇所:エズラ3・10~13
- 日付:2025年12月10日(水)
10 建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。
11 そして彼らは主を賛美し、感謝しながら
「主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまでもイスラエルに」
と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。
12 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。
13 そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。
ソロモンの建てた神殿は、バビロン捕囚のときに破壊されました。捕囚から解放されたユダヤの人たちは指導者エズラを中心にして、破壊されていた神殿を再建しました。
再建工事はいよいよ「礎を据える」段階まで来ました。今日でいう定礎式にあたるでしょうか。「王ダビデの規定によって主を賛美するために」とありますが、規定だからしかたなしに賛美したというのではないと思います。「民はみな主を賛美して大声で叫んだ」とあります。民は心から喜んだのだと思います。
しかし喜ぶ人たちばかりではありませんでした。「以前の宮を見たことのある多くの老人たち」は、これを見て大声をあげて泣きました。なぜ泣いたのか。明確に理由が述べられているわけではありませんが、容易に想像できると思います。「以前の宮」すなわちソロモン王の建てた神殿はやはり素晴らしかったのです。それに比べて、目の前でいま建てられようとしている神殿は、あまりにも貧祖で荘厳さに欠けていたのです。
再建に向かって大きく前進していることを喜ぶ人たちの「喜びの叫び声」と、昔を懐かしんで目の前のものを喜ぶことができない人たちの「泣き声」。この二つが混在しだれも区別できない状態。異様な定礎式でした。
エズラを中心にして進められる神殿の再建工事にはさまざまな壁が立ちはだかりました。エズラはその一つひとつを信仰をもって乗り越えていきます。立ちはだかる壁にはさまざまなものがありましたが、その中の一つがこの「以前の宮を見たことのある多くの老人たち」だったのだと思います。
過去の記憶はそれはそれで大切なことだと思います。しかし今を生きる者にとっては時に難しい問題を生みます。新しい学年を迎えて赴任した新任の先生は、以前の先生のすばらしさに自分の力のなさを見せつけられます。先代を引き継いだ若い社長は、多くの老齢な従業員に戦々兢々としているかもしれません。新しく前進しなければならない時に、内部でギクシャクとした状況を生み出し、停滞や後退が起こります。教会も例外ではないのかもしれません。
「民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた」(13)。
この「民」を、喜ぶ者と泣く者とを合わせて、その大声が遠いところまで聞こえた、と解釈することが多いと思います。それが正しいように思います。しかしこの「民」を「喜ぶ者」と解釈し、その喜ぶ者の声が遠いところまで聞こえた、と理解しても良いのではないかと思いました。喜ぶ者の声が否定的な思いで泣く者の声をかき消して、喜ぶ者の声が遠いところまで聞こえた、と。
喜びは、悲しを凌駕するのではないか。悲しむ者に、一緒に喜ぼうではないか、と励ましたのではないか。過去の栄光に囚われて悲しむ者が、喜ぶ者の声を聴きながら、次第に心が変えられて、ともに喜ぶ者になったのではないか。そんな想像も許されるのではないかと思います。
私は目の前のものを見て喜ぶ者だろうか、それともこの老人たちのように過去に囚われて泣く者だろうか。たとえ皆が否定的な涙を流していたとしても、信仰をもって喜びの叫びをあげる。その喜びの声には圧倒的な力があるのだと思います。たった一人であっても、その声は「遠いところまで聞こえ」るのです。
喜びの声を今日も上げたいと思います。
いつも喜んでいなさい。(第一テサロニケ5・16)