このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった

静まりの時

  • テーマ:主の道を備えよ
  • 聖書箇所:マタイ3・1~12
  • 日付:2025年12月02日(火)

4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

荒野で教えを宣べ伝えたバプテスマのヨハネの姿は、まさに荒野での生活を思わせるようなものでした。「柔らかな衣をまとった人」(11・8)ではありませんでした。この世から見ればまったく異質な姿をもって教えを宣べ伝えました。この姿だけですでに社会批判であるとある先生は説教集の中に書いておられました。悔い改めを宣べ伝えるバプテスマのヨハネの姿は、禁欲そのものだったのです。人間、姿形ではないとはいうものの、やはり内なるものが外ににじみ出るものなのかもしれません。

8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

言葉だけではなくその行いに悔い改めにふさわしい実を結びなさい、行動で明らかにしなさい、と読んでしまうところです。しかし続いて語られたアブラハムの子孫うんぬんの言葉は、自分のルーツがアブラハムにあるから大丈夫、と考えてはいけない、神さまは石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる、ということですから、神さまはどんなことでもできる、という信仰の大切さでした。ということは、悔い改めにふさわしい実とは、自分自身でこれで大丈夫と考えることではなく、神さまは何でもできる、という信仰に立って、すべてを委ねていくことではないだろうか。そのような確信を与えてくださるのが、「私の後に来られる方」、すなわちイエスさまである、とバプテスマのヨハネはいうのだと思います。

私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。

バプテスマのヨハネは、非常に大きな洗礼運動を行った人物ですが、その自分のやっていた洗礼運動をも批判的に見ることの出来た人でした。これがバプテスマのヨハネの素晴らしいところです。ひたすらイエスさまを指し示した人であったのです。

イエスさまは聖霊と火のバプテスマを授けられるお方です。この聖霊と火のバプテスマこそ教会が行っている洗礼のことです。ときおり教会で行っている洗礼を、水のバプテスマ、とし、それとは別に霊的な体験を、聖霊のバプテスマ、と呼ぶ方がおられますが、聖書は、そういう風には語っていません。バプテスマのヨハネの行っていた洗礼が、水のバプテスマ、であって、キリスト教会はバプテスマのヨハネを信じるのではなくイエスさまを信じるのですから、父と子と聖霊のバプテスマを授けています。すなわち聖霊のバプテスマとは、水の洗いをもってなされる教会での洗礼式のことです。
霊的な体験をもって、自らを大丈夫、と思うことは、ここで「『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思って」いることとそう変わらないように思えてきます。

どんなに偉大と言われることをやっても「私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません」と言い切れるのが、きっと「悔い改めにふさわしい実」なのかもしれません。


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