静まりの時
- テーマ:患難との戦い
- 聖書箇所:ピリピ1・12~20
- 日付:2025年11月22日(土)
17 ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。
18 しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。
そうです。これからも喜ぶでしょう。
19 というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。
20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
このときパウロは獄にいて鎖につながれていました。その苦しみのうえにさらに苦しめるものがありました。党派心のような不純な動機から宣教する人たちがいて、それがパウロをさらに苦しめたのです。
しかしパウロは「それが何だというのでしょう」といいました。自分が受けている苦しみなど取るに足りない。どんな動機からであっても、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられている。私はそのことを喜んでいる。この喜びはこれからも続く。今後も喜び続ける、とパウロは語ったのです。
何故なら、そのことは最終的には私の救いとなることを知っているとパウロはいいます。パウロの願いは「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」なのです。
ねたみのない人間はいません。何らかのねたみ、嫉妬心、を抱えながら人間は生きています。それが党派心を生み出すこともしばしばです。人生にわざわいすることもありますが、かえって人生に力を与える場合もあります。けっして褒められたことではないのかもしれません。しかし結果的によいものを生み出すこともあります。健全なライバル心が多くものを生み出し、文化を前進してきました。
罪の赦しと永遠のいのちの福音宣教は、人間にとっても最も必要で、死を持っても無くなることのないものです。どんな形であれ、どんな動機であれ、宣教が前進することを、私たちは喜びとします。