もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります

静まりの時

  • テーマ:患難との戦い
  • 聖書箇所:第二コリント11・16~33
  • 日付:2025年11月19日(水)

28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。

29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。

30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

16節からを読むと、パウロは愚かになって自らを誇ると書いています。その誇っている、自慢している内容は、キリストのために数多くの苦しみに出会っている、ということでした。

誰かの自慢話は、聞いていてあまり喜ばしいものではありません。自慢話をすることの愚かさは誰しも感じることです。しかし自慢話はしたくなるものです。自分の承認欲求のようなものを満たしたいと思うのだと思います。たいていはあとで後悔するようなことです。

パウロもキリストを宣教することによって受けた苦労の自慢話をしています。キリストのための苦労話は、多くの場合、キリストのために生きる、証しする、宣教する、ということで、キリストを知らない人たち、この世からの迫害であったり、迫害とまでも言わなくとも、憂き目にあったり、ということです。しかしパウロはそのようないわば外部からやってくる苦労だけではなく、「日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかい」という苦労を挙げました。いわば内部に起こる苦労です。

教会は、キリストを信じることによって人生が変えられ、神さまの愛の中に罪がきよめられ、そうして集められた人びとによる共同体です。教会は麗しい交わりの中に、まるで天国のような集団となることが期待されてしかるべきだと思います。しかし現実は、依然罪があり、きよさとは程遠い人びとの集まりであり、麗しい交わりどころか、「互いにかみ合ったり、食い合ったり」(ガラテヤ5・15)集団となってしまっていました。パウロは世界に向かって宣教するとともに、教会に向かって牧会しなければならないのです。その心づかい、共同訳では「日々私に押し寄せる厄介事」を、パウロはまたキリストを信じ宣教する者の苦労であると語ります。この苦労は牧師になってみて初めて知る苦労だと思います。

牧師や伝道者の交わりは大切です。この苦労を知っている、この苦労と闘っている仲間の交わりだからです。外部からの苦労ならば信徒とも共有することができるかもしれません。しかしこの苦労は牧師や伝道者の中でしか共有することができません。その苦労による傷はその交わりの中で癒されます。

この苦労との戦いに勝利する秘訣は、「自分の弱さのことを誇ること」だと思います。もしかすると、牧師や伝道者は、こういう苦しみを前にしてむしろ自分の強さを誇ろうとしてしまうかもしれません。しかし強さが生み出すものは、まるで撓(しな)りを知らない棒きれのようで、一見強く見えるけれども、負荷がかかるとぽきっと折れてしまう。それに対して弱さを誇ることができるということは、よく撓る竹のように、負荷がかかると自らのかたちを変え、へりくだり、そうして負荷が去るとふたたびもとに戻ることができる。

牧師、伝道者は弱さを誇らなければならないのだと思います。


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