神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます

静まりの時

  • テーマ:患難との戦い
  • 聖書箇所:第二コリント1・3~7
  • 日付:2025年11月18日(火)

4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

神さまが、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださる。神さまが慰めてくださる、というその慰めとはいったいどのような慰めなのか。

広辞苑で「慰める」とひくと、「(1)不満な心をしずめ満足させる。気をまぎらす。(2)相手の悲しみや苦しみをなだめる」とあります。この「なだめる」というのもよく分からない言葉ですが、同じく広辞苑では「(1)ゆるやかにする。(2)穏やかにする。(3)機嫌をとる。しずめる」とありました。

一緒にいて背中をさすったり、何か飲み物を用意したり、いろいろと言葉をかけたり、あるいは言葉はかけずに、ともに涙したり、ということを想像します。ギリシャ語では「パラカレオー」という言葉で、「パラ」は、「かたわらに」、「カレオー」は、「呼ぶ」というような言葉ですから、側に呼ぶ、側に来ていただく、という意味です。何かをする、というよりも、ともにいる。すなわちドゥーイングではなく、ビーイング、が、慰めるの基本のようです。

神さまもそのように、私たちを慰めてくださるのです。聖霊が慰め主と言われるのはそのようなことだと思います。

しかしどのような苦しみの時にも慰めてくださる神さまの慰めには、おおよそ人間どうしの中にある慰めとは決定的に違うものもあるはずです。神さまならではの慰めとはいったいどのような慰めなのか。人間では慰めることの出来ない慰め。神さましかできない慰めとはいったい何であるのか。

ギリシャ語辞書によるとパラカレオーには、慰める、という意味以外に、勧める、勧告する、訓戒する、という意味も書かれています。

神さまが、私たちのそばにいて、訓戒してくださる。それが私たちの慰めとなる。詩篇23編に「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」(4)とありますが、まさに神さまのむちが、私たちの慰めとなる。

そこである先生は、この慰めという言葉には、悔改め、という意味も含まれている、と書いておられました。

つまり神さまが私たちを慰めてくださる、というのは、私たちが「罪」に苦しむ、あるいは「罪」が原因となって起こる様々な苦しみ(これは、罪がひき起こす具体的な苦しみということではなく、自己中心の罪、すなわち神さま抜きで苦しんでしまうことの苦しみという意味です)を、十字架と復活のあがないによって慰めてくださる、ということである。それが神さまだけが慰めることの出来る慰めであって、そこには必ず私たちの悔改めが伴う。

そしてそれこそ、私たちに最も必要な慰めである、ということなのだと思います。わがままをいって泣いている子どものご機嫌をとり、苦しみや悲しみをごま化し、ただ気休めを語るような慰めは、私たちを真実に生かすことにはならないのです。私たちが必要としているのは、この罪からの解放を伴う慰め、神さまの前に真実に悔改め、十字架と復活による赦しの確信。罪と死からの解放。神さまだけが、この慰めを与えることの出来るお方です。

それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

この慰めをいただいた人だけが、他者を真実に慰めることができるのです。

そうすると真実に悔改めた人だけが、真実に他者を慰めることができる、ということになります。あるいはいまも悔改めに生きている人だけが、誰かを慰めることができるのです。礼拝で常に悔改めをするのは、真に慰め手として派遣されるためなのです。


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