静まりの時
- テーマ:患難との戦い
- 聖書箇所:ヨブ10・1~22
- 日付:2025年11月17日(月)
1 私のたましいはいのちを忌み嫌う。
私は不平をぶちまけ、
たましいの苦しみのうちに私は語ろう。
2 私は神にこう言おう。
「私を不義に定めないでください。
何のために私と争われるのかを教えてください。
3 あなたが人を虐げ、御手の労苦の実を蔑み、
悪しき者たちのはかりごとに光を添えることは、
あなたにとって良いことでしょうか。
ヨブの独白。同時に神さまへの祈り。
ヨブは自らに降りかかったわざわいの中で苦しんでいます。わざわいの苦しみもさることながら、ここでヨブが苦しんでいるのは、その苦しみの意味が分からないこと、そして神さまが不公平、不正義であるかのように見えること、です。
もし自らの罪に思い当たるならば、ヨブは納得したのだと思います。しかし自分なりにまっすぐに生きてきたと自負しています。しかし苦しみが起こった。あるいは苦しみが与えられた。それが納得いかないのです。それがヨブの苦しみでした。
旧約聖書に描かれているイスラエルに降りかかるさまざまな患難がありますが、その中で最大の国家的患難は、バビロン(アッシリア)捕囚です。その患難の原因、あるいは理由として預言書が語るのは、イスラエルの偶像礼拝でした。偶像礼拝に思い当たる人びとにとっては、この預言者の説明は、納得行くものであり、よって悔い改めに導かれ、新しく出発する力へと民を導きました。
しかし偶像礼拝に生きた人たちばかりではありませんでした。民の中にはまっ直ぐに神さまを第一にして歩んだ人たちも大勢いたのです。その人たちにとっては、この説明には納得いきません。偶像礼拝というならば、異民族はまさにその中にある。しかし偶像礼拝を行う異民族がことごとく滅ぼされているわけではない。むしろ異教の国であるバビロンやアッシリアは、神の国であるイスラエルを滅ぼすほどに繁栄しているではないか。この疑問は、イスラエルの国家的精神的危機だったのだと思います。
天と地を造られた神さまがおられて、その神さまを第一にしてきたのにも関わらず、どうしてこのような苦しみに会うのか。もし罪を犯しているというならば、納得できる。しかしどう考えても納得できない。それがイスラエルの苦しみだったのです。ヨブ記はそれに真正面から取り組みます。
この苦しみは、さまざまにバリエーションをもって現代の私たちにも迫ります。正直者が馬鹿を見る、信仰に生きても不幸が起こる、生まれつきさまざまな苦しみの中に生きなければならない人たちがいる、戦火の中で生まれたばかりの子どもが死んでいく、将来に希望をもって生きていた人たちが国家と国家の争いの中で拉致される、殺される、災害による苦しみ、事件に巻き込まれる、交通事故にあう、突然病気になる、などなど。理由と問うても答えがやってこない苦しみに私たちは日々出会います。いわば神がおられるならば、その神は果たして正しいお方なのか。ヨブ記はそういう苦しみに取り組み、立ち向かうのです。
正しいお方か、それとも不正な暴君か。それを問いかけているということは、そこに明らかに神さまのご存在への確かな信仰があります。神さまなどおられない、とすれば、この苦しみは消え去ります。人生を斜めに見て、どうせこんなものだとあきらめて生きることになるだけです。
しかしヨブはあきらめていません。神さまを信じています。それがまたヨブの苦しみを生み出しています。いわば信仰を持っているが故の苦しみです。
私たちはこの苦しみを理解できるでしょうか。