あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです

静まりの時

  • テーマ:仕える
  • 聖書箇所:マタイ25・31~46
  • 日付:2025年11月10日(月)

人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。

それから王は右にいる者たちに言います。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは答えます。

『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

すると、王は彼らに答えます。

『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
(31~40)

人の子、すなわちイエスさまが再臨されたときには、イエスさまは「王」としてすべてものをさばかれます。愛を行なった者には「御国を受け継ぎなさい」と言われ、そうでないものには「永遠の火に入れ」と言われます。

愛を行う者でありたいと思いますが、このイエスさまのたとえ話のひとつの焦点は、愛を行うことであれ、その逆を行うこと、すなわち愛を行わないことであれ、それのことを本人は知らない、ということです。つまり自分の行動を自分が評価する、あるいはさばくことはできない、もしそれができたならば、自分が王、すなわちさばき主になっていることになる。私たちはどこまでも神ではなく人間なので、自分の行動も、隣人の行動もさばくことをしない。最終的な審判のときに委ねる。そのような生き方に招かれているのだと思います。

「永遠の火に入れ」などと言われることを想像すると、恐ろしいことですが、主の十字架と復活によって罪がすべて贖われたのですから、はなはだ不十分ではありますが、自分なりに愛を傾けて生きて行けばよいのだと思います。このたとえ話は同じ26章の前半のたとえ話「タラントのたとえ」とあわせて読むのがよいように思います。

『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ26・23)


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