静まりの時
- テーマ:死に打ち勝つ
- 聖書箇所:第二テモテ4・1~8
- 日付:2025年11月05日(水)
1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。
「私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい」。みことばは厳かに命じられて語ることです。自分が語りたいから、とか、人びとが聞きたいから、ということもあるかもしれませんが、命じられてすることですから、たとえ、自分は語りたくなくても、また、人びとが聞きたくなくても、語ること。それが、みことばを語る、ということです。
なぜ命じられなければならないのか。語りたくない時がやってくる、また人びとが聞いてくれない時がやってくるからです。
人びとが聞いてくれない。それはどういう事態か。「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になる」。
健全な教えに耐えられない、とは一体どういうことか。悪質でよこしまな教えならば、聞くに堪えられない、ということも想像できます。しかし、健全な教え、であるにも関わらず、それを聞くのに「耐えられない」。
では、耐えられることは何か。耳に心地よい話、自分の好み、真理から耳を背ける、作り話。そういったものこそ、耐えられるお話、聞きたくなるお話である。
人間は罪びとです。救われた、といっても、この地上にある限り罪びとであり、自己中心性から完全に脱却することができない。健全な教えは、その自己中心性に果敢に挑戦していく教えである。健全な教えを聞いていると、どうしても自分を悔い改めなければいられなくなる。それが罪びとには耐えられない。もっとあるがままの自分を肯定してくれる、罪びとである自分を容認してくれる、そういう教えを求めて行こうとする。自分をごま化してくれるような、麻薬のような教えを期待している。しかしそれではせっかく救われたにも関わらず滅びに向かう人びとと全く同じ、いや、救いを知ったがゆえに滅びに向かう人びとよりも悪い状態に生きることになるのではないか。
説教者は、人びとが聞きたくなるようなお話をするのか。人びとが耐えられるお話、耳に心地よいお話を語るのか。それが真理から耳を背けるようなことになっても、そういうお話を語るのだろうか。
やはりみことばは命じられなければ、神さまから命じられなければ語り得ない言葉なのです。
説教者は、「時が良くても悪くてもしっかりやる」「忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧める」。それが説教者の務めです。「あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい」。それが伝道者の働きであり、伝道者の務めなのです。
「責め、戒め、また勧める」。新共同訳では「とがめ、戒め、励ましなさい」、共同訳2018では「とがめ、戒め、勧めなさい」。「責め」とは、「とがめ」ること。「戒め」は同じ。「勧める」は「励ます」こと。
それらが、すべて「教える」ということによってなされていく。何を教えるのか。聖書を教えるということをもって、責めたりとがめたりする。聖書を教えることによって戒めを与える。聖書を教えることによって勧め、励ます。すべて、説教者の思想や知恵ではなく、ひたすら聖書の教えによってそれらをなす。聖書にこう書いてあります、といって責め、とがめ、戒め、勧める、励ます。そうして人びとが神さまの子どもとして成長していくように導いていく。それが説教者の務めです。
そうして真理を語っても、なお人びとは耳を傾けない時代がやってくる。それでも語るには、忍耐が必要です。
「自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め」。二千年の昔にこのようなことが起こっていたといいます。現代はどうだろうか。あるキリスト教国では、テレビでいくつもの伝道放送がなされていたといいます。人びとは、日曜日に教会に出かけるまでもなく、まさに居ながらにテレビの前で礼拝を視聴できます。さまざまな理由で出かけることの出来ない方々にとって、これはすばらしいことです。また大切なことです。あるいはまだ福音を聞いたことのない人びとへの伝道としては重要な取り組みです。しかし同時に「自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め」ることが起こります。いくつものチャンネルを見比べながら、自分の好みにしたがって、視聴します。まさに視聴します。そこでは、自分たちのために教師を寄せ集めることになってはいないだろうか。インターネットの時代を迎え、ますます複雑になっています。説教者にはますます忍耐が必要となってきます。
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で」。説教者の忍耐は、このみことばによって培われ養われ形作られるのだと思います。人びとに語っているのですが、しかし神さまの御前で、そしてイエスさまの御前で語っている。イエスさまこと生きている人と死んだ人をさばかれるお方である。まことのさばき主の前で語っている。それを見失ってはなりません。会衆が数百人、数千人であっても、たった一人であっても、あるいはゼロであっても、それを見失ってはなりません。
ちなみに今朝のこの聖句は私の手帳の一番最初のページに書いていることばです。