はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております

静まりの時

  • テーマ:死に打ち勝つ
  • 聖書箇所:ヨハネ11・17~27
  • 日付:2025年11月03日(月)

25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

おそらくこのイエスさまの問いに答えるとすれば、次のような答えが想像されるのではないか、と思います。

「はい、主よ。あなたはよみがえりです。いのちです。あなたを信じる者は死んでも生きることを信じます。また生きていてあなたを信じる者はみな、永遠に死ぬことがない。そう信じます。」

しかしマルタは次のように答えました。

27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」

マルタは、イエスさまが自分の「主」であることを明らかにし、その主は「世に来られる神の子キリストであると信じている」、と告白しました。イエスさまが、よみがえりであり、いのちである、イエスさまを信じたならば死んでも生きる、生きていて信じる者は永遠に死ぬことがない、と信じることもとても大切なことです。しかしそれ以上に、イエスさまが「世に来られる神の子キリストである」と信じることは、大切なことです。

よく、聖書を読んでいて確かによいことが書かれているのだが、奇跡については信じることができないということを聞きます。奇跡を信じることができれば神さまを信じることもできるのだが、と。私は、それは順序が逆なのではないかと思います。神さまを信じることが先なのだと思うのです。

神さまを信じる。その神さまが天と地を造られたまことの神さまであるならば、奇跡ぐらい起こせてあたりまえなのです。復活が信じられない、といいますが、神さまならば復活など朝飯前なのです。復活を信じようと腐心するよりも、とにかく神さまを信じればよいのです。

マルタのこの信仰告白もどこかそれに通じるものがあるように思います。イエスさまとの禅問答のような対話(21節から)の最後に告白されたこのマルタの信仰告白は、とにかくイエスさまを私の主と信じるという、イエスさまへの愛に満ちています。

イエスさまは神の子キリストである。神ご自身であり、私たちを救うお方である。そのお方が私の主であり、今日もともにいて支え導いてくださる。まことの慰めをもって導いてくださる。そう私たちも信じたいと思います。

マルタはその救い主が「世に来られる」お方である、と告白しました。世に来る。世の「外側」から世にやって来てくださるお方。それがイエスさま、あなたです。と告白しました。もともとは世におられなかったのです。その世におられなかったお方が、世にやって来てくださった。それがイエスさまであると。

イエスさまを信じるということは、この「外側からやって来てくださった救い主」を信じることです。この信仰がマルタを包み込んでいます。私たちもこの信仰に生きています。

外側からやって来てくださった主を信じる私たちは、この世のどこを探しても解決が見いだせないときにも希望に生きることができます。人間的に見れば全く絶望するしかないときも、希望に生きることができるのです。この世から、全く根拠のない希望ではないか、と揶揄されても、私たちは確かなお方、イエスさまを信じているので、大磐石です。三谷隆正という方は、キリスト教信仰に生きる者の安心を、大磐石の金縛り、といいました。


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