- 教会・集会名:礼拝では読まない箇所となりましたのでブログに残しておきます
- 日時:2025年10月31日(金)
- 聖書箇所:第一コリント7章25~35節
- 説教題:品位ある生活
暗唱聖句
私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。
第一コリント7章35節
説教要旨
信頼を得ている者としての意見
25節から再び結婚に関してのパウロの言葉が続きます。ここで「私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として」、意見を述べると、断りを入れています。これに続く言葉は、直接主イエスさまが言われたことではないが、主を信じる信仰をいただき、主にお仕えしてきた者として、おそらく主ならばこう言われるであろう、と思いながら意見を述べるということです。
牧師の語る言葉は、人間の言葉ですが、しかし主に仕える者として語られる言葉です。それが聖句を引用することでなくとも、主が語られる言葉として語られ、そして聞かれるということが起こります。おそらく礼拝における説教は、そのようなものの最たるものだと思います。決して牧師が語る言葉が神のことばというわけではありません。しかし礼拝において聖書が説き明かされるということは、そこに、神さまのみこころが語られているという了解が説教者においても会衆においても必要です。
「差し迫っている危機」「時は短くなっています」
パウロは、「未婚の人」(25)「独身の男」(32)「独身の女や未婚の女」(34)に向かって語りますが、結局結婚してもしなくても、心に留めておかなければならないことは、私たちは「差し迫っている危機」を前にしている、ということ。そして「時は短くなっている」ということである、といいます。
時が迫っている、時はいつまでも続くわけではない、もうすぐそこに終わりがやって来ている、それを忘れてはいけない、というのです。これは、世の終わり、主の再臨のことと理解していいと思います。初代の教会は、すぐにでも世の終わりが来ると信じていた、と言われます。マラナ・タ、主を来てください、との祈りが礼拝の祈りであったと言われます。そのような切迫感を持つことが、信仰生活においてどのような判断をし、どのような歩みをするかの基準となる、というのです。
世の終わり、主の再臨とともに、自分の人生の終わり、死、を考えるとすれば、ますます切迫感は大切なことであると思います。
品位ある生活を送って、ひらすら主に奉仕できるようになる
この切迫感を持つことの目的は、ひたすら主に喜ばれる生活を選びとるということです。34節に「心が分かれる」とあります。主が喜んでくださる生活か、それともこの世が喜ぶ生活、すなわち自分が喜ぶ生活か。その両者の間で心が分かれてしまう。そうして思い煩ってしまうのです。
パウロは、世の終わりを語って人びとを脅かそうとしているのではありません。心が分かれてしまうような人生であれば、その人自身が不幸です。パウロは、これを聞く人びと自身の益となることを語ろうとしているのです。まことの自由を与えるために語っているのです。
私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。
第一コリント7章35節
自分自身のために本当に益となることをする、そうしてまことの自由に生きる。それが品位ある生活を送ることになり、そうしてひたすら主に奉仕できるようになる。
品位ある生活。迫りくる時を前にして、その切迫感によって、品位ある生活を送る。刹那的な生活でも厭世的な生活でもありません。一日一日を丁寧に、大切に生きることです。そのために、ひたすら主に仕えるのです。あるいは主に仕えることこそ、一日一日を大切に生きる生活を形作るのです。
祈り
天の父なる神さま。時の短さを見失うことなく、品位ある生活を送らせてください。そのためにひたすらあなたにお仕えする者としてください。