わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである

静まりの時

  • テーマ:逆境にあって
  • 聖書箇所:第二コリント12・1~10
  • 日付:2025年10月31日(金)

2 私はキリストにある一人の人を知っています。・・・5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。

この「キリストにある一人の人」とは、パウロとは別の人物のように語り始められていますが、つづく文章を見ると、これがパウロ自身であることが分かります。

6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。

不思議な書き方をしていますので誤解を生むかもしれませんが、パウロは自分のことをこのように語ることによって、弱さの中にも力強く生きる道を伝えようとします。

7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。

「三度、主に願った」というのは、回数として三回祈った、というのではなく、3は完全数ですから、幾度となく祈った、祈りに祈った、数えきれないくらい祈った、という意味です。
パウロが数えきれないくらい祈った、その祈りの課題は、自らの肉体に与えられた「一つのとげ」を「私から去らせてくださるように」ということでした。
この「一つのとげ」には諸説ありますし、さまざまな想像がなされるところですが、聖書は明確に記していません。この明確に記していない、ということの前に、私たちは謙遜になるべきだと思います。それは心身に起こった病気であるかもしれませんし、外見の変化かもしれませんが、いずれにせよ私たち自身も経験する「一つのとげ」と置き換えて考えるべきだと思います。私にとって「一つのとげ」といえるものはいったい何だろうか。

病気であるならば、いやされるように、人生の問題であれば解決されるように、そう祈った、ということです。しかし神さまからの答えはパウロの願いを超えたものでした。願いが拒否されたのではなく願いを超えたものだったのです。

9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

一つのとげが取り去られたならば、神さまの恵みが十分となる、完全となる、と思っているかもしれないが、その一つのとげ、すなわち「弱さ」があるからこそ、神さまの恵みは十分である、弱さのうちにこそ神の恵みは完全に現れるのだ、と主は言われたのです。

ここにキリスト教はいわゆるご利益宗教と一線を画するものであることが明らかにされました。ご利益宗教との違いは以下のようなことだと思います。

  • 自分の願いではなく、神のみこころにこそ恵みがある。自分の願いは、罪びとの願望でしかない場合がある。その願望を超えた希望に生きるためには、すべてをご存じで今もすべてをその御手の中にご支配しておられる神さまのみこころに生きることこそ、まことの幸いがある。
  • パウロにとって「一つのとげ」が「取り去られる」ことは、単純に「罪びとの願望」とは言えない。切実な願いである。どこから見ても答えられるべき願いである。しかしそれさえも、神さまのみこころの前には優先されるべき事とはならない。人間の考える「善」には、つねに限界がある、ということをわきまえなければならない。すべての争い、紛争、戦争は、何らかの大義によってはじめられている。神を信じるということは、徹底的に神中心に生きることである。
  • 一つのとげ、すなわち弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難は、いわゆるご利益宗教においては、不必要なもの、ないほうが良いもの、意味のないものであった。しかしまことの神を信じる信仰は、これらに意味を与える。さらには、なくてはならないもの、として重要な位置を与える。弱さがあるから不完全なのではなく、弱さがあるからこそ完全である。弱さがなければ不完全なのである。

こうしてまことの神さまを信じる私たちは、どんな中にあっても大いに喜んで生きることのできる者とされました。

私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

これは新共同訳では以下のように訳されています。

わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。

喜んで生きる、ということは、いまのあるがままの自分にそして現状に満足して生きることなのです。

ちなみに、主のことばとして書かれている9節の

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」

ですが、この中の「わたしの力は」は、新共同訳や共同訳2018では、「わたしの」という言葉はなく、ただ「力は」となっています。

「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(新共同訳)
「力は弱さの中で完全に現れるのだ」(共同訳2018)

文脈からこの「力」は神さまの力を現しているといえますから、「わたしの力」と訳してよいのだと思いますが、単純に「力」と訳されていると、少し想像が膨らみます。

「力」。それは、弱さのない状態です。しかし聖書は、本当の力は弱さを内包している、と語るようにも思います。圧倒的な力、たとえば軍事力を増強してもいたちごっこのようで、いつまで経っても平安、平和は完全には生まれません。疑心暗鬼は増すばかりです。

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
(第一コリント1・18)

私たちは全き弱さのなかに立ってくださった主こそ、まことに力のある方であると信じています。
そして私たちも、私の十字架を私なりに背負って歩むところにこそ、まことに力に満ちた歩みがあり、神さまの力が完全に現れる道が前進するのだと信じています。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: