静まりの時
- テーマ:逆境にあって
- 聖書箇所:詩篇70・1~5
- 日付:2025年10月29日(水)
5 私は苦しむ者 貧しい者です。
神よ 私のところに急いでください。
あなたは私の助け 私を救い出す方。
主よ 遅れないでください。
この「苦しむ者、貧しい者」を新共同訳では「貧しく、身を屈めています」と訳しています。
6 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。
速やかにわたしを訪れてください。
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。
主よ、遅れないでください。
身を屈める、身を低くする、腰やひざをまげて身を低くする。苦しみの中で、そのようにせざるを得ない状況なのだと思いますが、必ずしも苦しみが人をそのようにさせるわけではありません。むしろ苦しみの中で、果敢に挑み立ち上がり、自らの力によって抗う、ということも起こります。積極的に立ち向かうのは、立派なことですし、人間的に見れば素晴らしいことのように見えます。
だれしもそうありたいと願うのかもしれませんが、そのようにできる人ばかりでもありません。自らの弱さのなかに沈み込んでしまうように、身を屈めることになる人も多いのではないか。
この悲痛な叫びのような祈りに、私たちは共感するでしょうか。それとも、情けない、といって切り捨てるのでしょうか。
身を屈める人。イエスさまはこのような人のそば近くにいてくださるのだと私は信じています。人生の苦しみのなかで身を屈めるということもそうですが、自らの罪の深さを思うとき、私たちはだれしも身を屈めずにはおれないはずです。主のあがないを信じた者は、すべてこの、身を屈める者にしていただいたのだと思います。
礼拝はすべての者が膝を屈めるときであり、身を屈める時です。そのような礼拝をおささげしたいと願っています。そのためには、集う者が、主のあがない、を経験していなければなりません。
「イエス・キリストの贖いのわざによってつくり変えられていない人は、誰もが自分中心です。私たちはすべて、自分で考えた自分なりの小さな世界から人生を始めます。もし自分を、だれよりも優秀で頭脳明晰で天才だと思うなら、考えることすること、人間関係、人生の目的は、その傲慢な自分から流れ出ます。」(ダイアン・ラングバーグ、『パワハラ・セクハラとキリスト教会―権威とその乱用』、ヨベル、2024年、79頁)
イエスさまを信じたといっても、果たしてイエスさまの贖いのわざによって自分はつくり変えられているだろうか。つくり変えられていないとすれば、礼拝すらも自分から流れ出るもの、自己満足と自己主張の時となります。礼拝が真実の礼拝となるために、そしてキリスト者の生活は愛と喜びに満ちるために、贖いのわざによってつくり変えられること、身を屈めること。どうしても必要なことなのですが・・・。