静まりの時
- テーマ:とりなしの祈り
- 聖書箇所:エレミヤ14・1~9
- 日付:2025年10月25日(土)
8 イスラエルの望みである方、
苦難の時の救い主よ。
どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、
一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。
9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、
人を救えない勇士のようにされるのですか。
主よ。あなたは私たちのただ中におられ、
私たちはあなたの御名をもって
呼ばれているのです。
私たちを置き去りにしないでください。」
神さまは「望み」であり、「苦難の時の救い主」です。しかしこのとき預言者エレミヤには「この地にいる寄留者」「一晩だけ立ち寄る旅人」「驚いているだけの人」「人を救えない勇士」のように見えました。
苦しんでいる者を前にして、どこまでも「他人」でいつづける人のように、神さまはふるまわれている。そのようにエレミヤには見えたのです。
確かに苦しみの中にあって実際的な助けがないとき、いったい神さまは何をしておられるのか、という気持ちになるのは無理もありません。本当に神さまはおられるのか。おられたとしても遠く離れて見ておられるだけなのではないか。神さまがおられるならば今すぐにでも私を救ってみろ、と。主が十字架につかれたときに投げかけられた言葉とも重なります。「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(ルカ23・39)。
しかし同時にエレミヤはこうも語りました。「主よ、あなたは私たちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです」。神さまはともにいてくださる、とエレミヤは信じています。
神さまを信じていないのではない、信じているからこそどうしてこのような苦しみに出会っているのだろうか、という問い。それがエレミヤの苦しみでした。ヨブに通じる苦しみがここにあります。
いっそのこと、神さまなどいない、とニヒルになってもよかったのかもしれません。そのほうがあきらめもついたかもしれない。人生をあきらめ、自分をあきらめてしまったほうが楽だったのかもしれない。しかしそうはしないのです。どこまでも神さまを信じ、信頼し続けている。そうして人生を捨てない、自分を捨てない。
今週は「とりなしの祈り」がテーマでしたが、この苦しみの現実の中で神さまを信じ続ける、神さまこそ望み、希望、苦難の時の救い主であることを見失わない、それがとりなしの祈りに生きる、ということなのだと思います。